川崎エッセイ  伊丹の果てから 伊丹路地  川崎サイト

 

伊丹路地


 町名変更で「南菱町」が「南鈴原」になった。南菱の「菱」は三菱から来ている。つまり三菱の社宅だった町なのだ。似たような町名として「若菱町」がある。
 南菱町は南野村の中にあった。南野は「むぎわら音頭」で、そこそこ有名な村である。その村へ僕の親が三菱の社員として引っ越して来たわけだ。社宅だった時代、父親達は全員同じ会社へ行っていた。そのため子供達である僕らは、似たような環境で育ったことになる。まあ、あまり意識はしていなかったが三菱社員の子供達だった。
 小学生時代まで、家の中に水道がなかった。井戸と水道をお隣さんと共同で使っていた。この井戸があった場所が遊び場になった。社宅が持ち家になってからも、社宅時代のように井戸の前で遊んでいた。今ははっきりと境界線が引かれ、隣の人の敷地になっているため、立ち入ることは出来ない。
 それに持ち家になってから、増築や改築、または建て替えなどで、路地は塞がれてしまった。
 当時、入り込める場所があれば、他人の庭だろうが、納屋だろうが、平気で侵入し、遊び場にしていた。全員三菱の子供なので、それが出来たのかもしれない。
 井戸と水道の前で「釘さし」や「ベッタン」で遊んだ。今考えると、その場所は他人の庭だったことになる。土に穴を掘り、ビー玉を転がしたり、他人の家の壁にボールをぶつけて遊んだ。
 そのため南菱町では毎日のようにガラス窓が割れていたのではないだろうか。それでも粉々に砕けていなければ、絆創膏を貼り付けていた。またガラスの代わりにベニヤ板を貼っている家もあった。そのベニヤも、その辺に落ちていたように思う。
 路地の奥に破れた雨戸やタンスや、襖や畳などが立てかけられていた。そのため、危険な路地が多くあり、足を踏み入れ、よく釘を踏み抜いた。年に一度ぐらいの割合で足の裏に釘が刺さっていたように思う。そのため二日ほど不細工な歩き方になった。
 そして路地裏を舞台にした鬼ごっこや探偵ごっこは、どんな娯楽よりも楽しかった。
 冬場は、やたらと焚き火(とんと)をした。枯れ木や廃材やゴミを燃やすのである。その中にサツマイモを入れると、焼き芋が出来た。しかし黒く焼け過ぎて、食べられるところは僅かだ。それに変な匂いがした。
 木材を燃やすときにはカラケシを取った。真っ赤に燃えている木片を取って水にジューと浸け、カラケシという炭を作るのである。このカラケシは七輪(コンロ)で火をおこすときに使った。
 都市ガスが家に来るまで、朝はコンロで火をおこさないといけなかったのである。コンロの中に、まず新聞紙を丸めたものを入れ、その上に蒲鉾の板を細かく切ったものや、先ほどのカラケシを乗せ、新聞紙に火を付けると一気にカラケシまで火が移る。そして本物の炭を乗せ、更にその上に穴あき練炭を乗せるのである。練炭の下が真っ赤になれば、火鉢に移す。練炭は長持ちするので、これで湯を沸かしたりする。しかも貴重な暖房装置にもなる。炭から練炭になり、便利な世の中になったと、子供心に思ったものだ。
 そんな時代、路地裏文化が花開いた。隣の町内の子供がやって来て、ベッタンやビー玉や相撲の試合を挑んだ。相手の手の内が分からない状態で、試合をするのは怖かった。ルールも違うので、それを確認し合った。ベッタンは紙質で勝負が決まる。少しでも分厚いほうが有利なのだ。そのため蝋燭を垂らし、コーティングした「ロウベッタン」や、巧妙に二枚貼り合わせた二重ベッタンが横行した。これは反則であり、もし、ばれれば信用をなくし、その後試合させて貰えなくなる。
 僕は遙か彼方の駄菓子屋(阪急新伊丹駅前のお屋敷町の中にあった)で、通常ベッタンの三割増しの厚さのある「カタベッタン」を見つけ、これを使って荒稼ぎしようとしたがベッタンやメンコブームはその後すぐに去った。
 ちょうど戦国時代、堺の町で飛び道具を買うようなもので、その駄菓子屋は絶対人には教えなかった。
 その新伊丹駅の東に植松という巨大迷路のような路地があった。夏休み、姉に連れられ、その同級生の家へ行った。南菱町の路地とはスケールが違っていた。巨大な酒蔵があり、路地の深さや複雑さも南菱町の比ではなかった。
 それを思い出し、先日植松へ行って来た。しかし町名が伊丹何丁目とかになっていて、植松の町名が見当たらない。そして路地も浅くなっていた。
 僕が見ていた路地裏の世界はもうない。また、それを越えるようなめくるめく世界もない。それは子供の頃、伊丹の市場裏(伊丹ジャンジャン横丁)で食べたゴルフ球ぐらいのタコ焼きがないのと同じことだ。路地裏で見た電柱は通天閣よりも高かった。
 遙か彼方まで無限に広がっていると思っていた路地、それが大人になって限りがあるものだと知ったとき、あり得ぬ世界を書いてみようかと思い、漫画を書き始めたのかもしれない。
 路地裏、それは僕にとって、虚構への温床だった。


1997/2/14


 

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