川崎エッセイ  伊丹の果てから 野間  川崎サイト

 

野間


 伊丹市の南西、尼崎市との境に野間(のま)がある。僕の住む南野の隣村だ。しかし、もう村落風景は殆ど残っていない。田畑だった所は住宅地になっている。大阪郊外によくある風景だ。
 しかし田園風景が広がっていた時代も、摂津によくある村落だったのだから、特徴云々はこの際問題ではない。
 子供の頃、野間村までは畦道を伝って行けた。南野村から野間村の鎮守の森が見え、それに向かって迷路のように入り組んだ畦道を、あみだくじを引くように進めば、たどり着けた。
 もちろん南野村と野間村を結ぶ大きな道があった。当時、野間村の子供達は御願塚にある南小学校まで通っていた。今でも目を閉じれば、その道が目に映る。ジャガイモのような頭をした野間村の子供と友達になり、未知なる道を通って家まで遊びに行った。こ汚いその友達が、ものすごく大きな農家の子だったので驚いたことがある。宅地で生まれた僕の家の庭に比べ、農家の庭の広さに仰天したものだ。
 南野村の道は地元なので、親の知り合いも多いため安心だが、その畦道の彼方にある野間村は、僕にとっては異境だった。畦道から見る野間村は水平線の彼方にある。
 南野村の鎮守の森を野間側から見たとき、綾線が違うので驚いた。いつも見ている森が、こう見えるのかと新鮮に感じた。畦道を伝って野間村に近付くと、今度はさらに南側(尼崎市)の村落が視野に入る。もうそこは外国だ。炎の形をした樹木が遠方に見え、巨大な鉄塔(高圧線)が走っているのも不気味だった。
 いくら好奇心の強い幼少年時代でも、「この先を進むのはまずい」と、真剣な眼差しで、異境の地を草むらから眺めたものだ。また、雀より少し大きな鳥が群をなして飛んでいるのを見て、不安な気持ちになった。さらに白くて大きな鳥(白鷺)が舞い降りるのを見て、面食らったものだ。こんな生き物が生息している土地は怪しいに決まっていると。
 畦道に出る蛇も、南野村の蛇より大きかったし、うじゃうじゃいるのを見て、ショックを受けた。西を見れば武庫川の松が見えるし、列車が鉄橋を渡る音もよく聞こえた。
 さらに、近畿中央病院や三井グランドが視界の中に入ると、もう恐くて恐くて仕方がなかった。三井グランド前の川で隣家のお兄さんが台湾ドジョウを捕って食べたとかの話を聞いていたので、僕も早くその年になって、遠征したいと思ったものだ。
 そのときの距離感は、大阪東京間の比ではない。たった数キロが計り知れない彼方に存在していたのだ。
 その野間村へ今は毎日スクーターで通過している。郊外型の大きな本屋さんが建ち、ファミリーレストランやコンビニが並んでいる。既にそこは別の土地になってしまった。
 マンションが建ち並び、その中にはインターネットのプロバイダー屋さんもあるほどだ。すっかり現代がそこに存在している。そして、僕の日常と同一線上に、その街が並んでいる。
 もう、雀に似た怪しい鳥の群も、華麗な白鷺も見かけなくなったが、子供時代と同じように、その一帯を散歩している。探検心をくすぐるようなものがなくなるのは、大人になれば当然だろう。
 しかし、野間村の農家へ行くと、古い時代の胃薬の看板が未だに貼れており、そこだけは子供時代と同一線上にあり、逆に驚かされる。
 炎の木も小さく見え、すぐそばまで近付くと、何でもないお堂がその下にあるだけで、なぜこの木が不気味だったのかと、ニヤ笑いする。
 まあ、変わらないものと言えば、鎮守の森ぐらいで、残り少なくなった田畑は住宅地に取り囲まれ、もう、あみだくじのような畦道もなくなってしまったが、僕にとっての野間は、未だに異境の幻を残している。

 


1997/6/23


 

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