川崎エッセイ  伊丹の果てから 稲野  川崎サイト

 

稲野


 伊丹市にはJRと阪急の駅がいくつかある。JR宝塚線は昔の福知山線で、本数が非常に少なかった。そのため大阪や神戸に出るときは、阪急のほうが便利だった。
 伊丹市内の交通網はバス路線で支えられている。最大のターミナルは阪急伊丹駅前だ。商店街も当然ここが一番大きく、そして多い。だが、市内の大きな町や団地前などにも商店街や公設市場があった。
 阪急稲野駅前は市バスの停留所がない。新伊丹駅のようにバスが入り込めるような幅の広い道がなかったためかもしれない。駅前にバス停はないが、商店街はある。いわゆる駅前型商店街だ。
 稲野町は大きな住宅地で、新伊丹と似ている。大きな屋敷がびっしりと建ち並んでいる。町の西は塚口と伊丹を結ぶバス道もあるが、こちらには商店街はない。
 稲野商店街は個人経営のお店の連合体である。そのため、一軒が潰れても全店舗が消えてなくなるようなことはない。
 店がなくなっても、二階は住居になっていたりするので、建物はそのままである。と、思っていたのだが、ごっそり取り壊された一角もある。とにかく駅前である。一等地である。徒歩数秒である。環境もいい。マンションなら最高の立地条件だろう。
 この商店街に古くからある本屋さんが消えてしまい、新しく出来た別の本屋さんも、あっという間に消えてなくなった。駅前の角地に今度は大きな本屋さんが出来たが、それも消滅した。本屋さんが根付かない場所のようだ。
 同じように、喫茶店も次々と消える。カラオケスナックやマンションになってしまった。これは稲野駅前に限らず「純喫茶」がたどる運命なのだ。しかし、マンションの一階にあるフランス料理店は、繁盛している。
 通勤前、駅前の喫茶店で一服してから……というような人は少ないのだ。僕がよく行く阪急伊丹駅前の喫茶店などは、駅のどん前にある関係からか、早朝7時から満員だ。その近くの商店街にある老舗喫茶店は先日店を閉めた。似たような立地条件なのに、不思議である。
 僕が稲野駅近くに仕事場を借りるようになってから、よく夕食を食べに行くレストランがある。寿司屋か、喫茶店か、うどん屋か、定食屋か、飲み屋か、その境界線が曖昧な店だ。
 夕食時には常連さんが、いつも同じテーブルにつく。中高年の男性客が大半で、女性客を店で見るのは稀だ。昼間は来ているのかもしれないが、夕食時間帯はオッサンの一人客が四人掛けテーブルの一つ一つを占領する。それほど混まないので、ゆったり出来るのだ。
 ガラス窓の向こうは、駅の改札口である。下車した人の流れは、この店には来ない。僕のように徒歩か、自転車で乗り付ける客ばかりだ。これでは駅前のメリットはないに等しい。
 八百円の定食を食べるより、駅前のスーパーで素材を買い、家で煮炊きしたほうが遙かに安いためかもしれない。
 店内に白雪の酒樽が置いてあったので「ここで出す酒は白雪ですか」と聞くと、違うと言う。飾ってあるだけらしい。他にも巨大な壺や、民芸品が並んでいる。
 寿司、ハンバーグ、焼き魚、うどん、スパゲティ、チャンポン、カレーと、メニューも多彩だ。
 魚は炭火焼き、チャンポンの麺は長崎直送などと、グルメ時代が嘘のように思えてならない。いや、嘘だったのだ。
 この店の常連客と、別の喫茶店や食堂で顔を合わせることがある。だが目を合わせることはない。食事中というのは、生理現象を遂行しているようで、何となく恥ずかしいからだ。それもあるが、仲間と思われたくないのかもしれない。「同じ釜のめしを食った仲」は、食堂の場合は当てはまらないが、同じものを食べていたことによる気恥ずかしさは、少しはあるようだ。
 レストランの前に日用品店がある。食器類から鞄まで売っている。特に目立った商品はない。高くもなければ安くもない。タワシやホウキといった生活の必需品を売っている。
 駅前商店街は普通に暮らすためのベースが示されている。特に際だったものは売っていないので、安らかな気持ちで商品を選択出来る。
 普通の人の暮らしぶりは普通なだけに、雑誌では取り上げにくいようだ。やはり「これという特徴」や「これは面白い」とかがなければ、特集が組めないのだろう。また、特集しなくても身の回りにいくらでもあるので、伝える必要がないのかもしれない。
 しかし普通のオッサンさんや兄ちゃんも多彩で、ダサイ服装をしていても、それなりに違いがはっきりと出ている。彼らには各々明確で確固たる信念による好みがある。だがそれは、言うほどのことでもないようだ。
 地元の商店街から離れ、夢見るような目付きで、あらぬ商品や生活を追い求めている人々も、いずれはこのような商店街のセンスに戻ってしまうような気がする。

 


1998/5/14


 

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