小説 川崎サイト

 

呼んでいる

川崎ゆきお



 前田は夜中に目覚めた。
 あまりないことだ。
 尿意がある。これも滅多にないことだ。やや風邪気味だ。それで寝る前に風邪薬を飲んだ。薬局で勧められた薬だ。よく聞くメーカーのものだが、飲むのは初めてだ。
 小便が出やすくなる成分が含まれているのだろうか。または風邪で悪寒があり、冷えてトイレが近くなっているのだろうか。
 どちらにしても、睡眠中トイレに立つことは滅多にないのだ。
 二年前に引っ越したワンルームマンションで、築二十年以上経つ。
「今頃出るのか」
 前田はそこまで先走った。
 小便が今頃出ると言う意味ではない。
「呼ばれている」
 前田は電気をつけ、部屋を明るくする。暗いと怖い。
 ワンルームだ。トイレのドアまで目を瞑っても行ける。
 トイレのドアは閉まっている。前田は滅多に閉めない。面倒だからだ。
 それが閉まっている。
 たまには閉めるときがある。偶然閉めたのだろうか。そんなことは覚えていない。
 どちらでもいい問題だ。意識の外だ。
 閉まっているのは、前田が閉めたためだ。そう考えるのがふつうだ。
 前田はトイレの前に立つ。
 ドアを開ける前にトイレの電球のスイッチを入れる。百ワットの電球で非常に明るい。中で読書をするためだ。
 パチリと、スイッチを入れる。
 スリガラスの窓が明るくなる。
 ゆっくり開けるより、一気に開けた方がいいだろう。
 夜中、呼んでいるのは、このトイレの中の何かだ。
 前田には呼ばれているという意識がある。そういう気がするのだ。これは気のせいかもしれない。
 前田はドアを開けた。
 便座がそこにある。
 寝る前に飲んだ風邪薬がベンザという名前だったことを思い出す。異常がないので、そんな連想ができたのだろう。
「坊主が座っているはずだった」
 前田は子供の頃に見た夢を思い出していたのだ。便所の戸を開けると坊主が大便をしていたのだ。
 その夢を見た原因は分からないが、坊主と祖父が重なった。
 その夢がずっと記憶にあり、トイレのドアを開けるとき、半年に一度はそれを思い出す。
 前田は一安心した。怖いものを見なくてすんだからだ。
 そしてベッドで安心しきって眠りに入ろうとしていた。
 前田は何か忘れているような気がかりがあった。
「何だろう」
 それはすぐにわかった。
 トイレのドアを開けただけで、用はたしていないのだ。
 そして尿意もない。

   了

 


2009年11月30日

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