小説 川崎サイト

 

毛玉

川崎ゆきお




「水平思考と垂直思考がある」
 と、中年男が声を出す。
 独り言かなと、隣のテーブルに座っていた若者は思う。それは深く思ったわけではない。今かかっている曲は何だったのか程度のことだ。少しだけ、意識がそこにあるだけだ。窓の外に自動車が走っている。道路に面した店で、かなり大きな道だ。自動車が走っていても、ほとんど意識しない。空に雲があるのかないのか程度の認識だ。この場合も、少しだけ気にとめる程度で、それ以上の階層はない。
「うまいこと言うねえ、この論説。水平思想のその後の流れと似ているか……」
 中年男は、少しだけ、この声が気になった。思わず声を出すようなことはあるが、独り言の連発はおかしいのではないかと……。
「君はどう思う」
 テーブルは別だ。しかし椅子の位置はすぐ横だ。中年男が発した声は、自分に来ていることになる。近くに他の客はいない。
 二人は顔見知りではない。
 会話を求めていると若者は察した。
「いい話だよね。僕も経済学部出だから、こういう話は好きなんだ。水平思考って、少し古いんだけどね」
 若者は無視し、コーヒーを飲む。会話に持ち込まれたくない。バイト前に頭を切り替えるため、コーヒーを飲みに入ったのだ。ここでチェンジしてからバイト先へ行く予定だ。だから、静かにチェンジしたいのだ。
 若者は、ちらりと中年男を見る。
 目が合った。ずっと若者を見ていたのだ。
「ここはいいねえ。コーヒーは安いし、音楽もいい。空調もいい。こういう現象は水平思考の影響なんだよね」
 若者は頭の中で、何らかの判定を下そうとした。この中年男の正体を」
「うちの会社でも、水平思考をやろうかなあ。水平を広げるためには人材が必要だ」
 中年男は顔だけ若者の方を向けている。
 若者は正面を見ている。そして、ぐっと上体を前に傾け、視野に入らないようにしている。
「いい人がいたら、入れたいんだけどね」
 若者は反応しない。それは、話しかけられていないと判断したからだ。つまり、中年男はこちらを見ながらの独り言なのだと。
「即決で決めてもいいんだ。これと思う若者なら、採用するよ。僕の独断でね」
 もしや、この偶然は……と、若者は思わない。確かにバイトではなく正社員の方がいい。
 しかし、この中年男の下で働くのはまっぴらだ。
 また、独り言の中身は、ただのでたらめな話であることは、その身なりからわかる。
 真冬なのに薄いジャンパーで、その下から見えている毛糸のセーターには毛玉が付いていた。
「我が社の創立はね……」
 若者は席を立った。
 
   了

 


2010年1月24日

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