小説 川崎サイト

 

ストレート

川崎ゆきお




「奥さん、ゴム紐買ってくれないかなあ」
「えっ、何をですか?」
「ゴム紐だよ。ゴム紐」
 男は薄汚れたボストンバッグからゴム紐を取り出して見せた。
「これだよ。これ。そこらで売ってるゴム紐じゃないよ。有名百貨店で売ってる高級品だ。安もんじゃないからねえ。簡単には伸びないよ」
「硬いのですか」
「そうじゃないよ奥さん。伸びないゴム紐はゴム紐じゃない。ただね、使ってると戻りが悪くなってねえ。緩くなるんだよ。奥さんも経験あるだろ」
「何処で使うのですか。そのゴム紐」
「決まってるじゃないか、パンツだよパンツ。パッチでもいいし、ゴムズボンでもいい」
「そんな専門品は……」
「専門品じゃないよ。パンツのゴムが緩むと、取り替えるだろ。日用品じゃないか。だから、売りに来てるんだよ。そういったお困りの家庭に、滅多なことじゃゆるまない高級ゴム紐をね。そりゃ、値段は張るよ。張るけど何度も交換すること考えりゃ、この高級品の方が結局は安くつくんだ。それに取り替える手間も省ける。もう、パンツの緩みなんて気にしなくてもいいんだ」
「ちょっとお父さん呼んできます」
 嫁に言われて、義父が玄関先に登場した。
「あんたかね」
「何だ年寄りか、買ってくれるまで帰らないからな」
「噂には聞いていたが、実物を見るのは初めてだ。子供の頃、よく聞いたよ。君たちのことを。でも、もうゴム紐を売りに来る人はいなくなりつつあった。だから、私も見るのが今日が初めてだ」
「何だよ。妙な年寄りだな」
「僕はまだ六十代だよ」
「年寄りじゃないか、六十過ぎじゃ」
「まあ、その話はいい。それより、どうして今頃、そんなストレートな押し売りをやろうと考えたのかね」
「押し売りじゃないぜよ。商いじゃないか。便利な物を売りに来ただけで」
「でも、売れるまで帰らないのだろ」
「買ってくれるに決まってるよ」
「その強引さ、どこから来るのかなあ」
「さあ、今なら、半額だ。一巻きありゃ、当分は持つぜ」
「パンツのゴム紐か。そんなの最近替えてもらった記憶がない。それに、このゴム紐、何処から通すんだね。かなり太いじゃないか」
「これだから素人は困る。そのための針があるんだよ。針は針売りの専売だ。だから、持ってきていないがね」
「ああ、そういえば大きな針で通していたなあ」
「まあ、旦那はそんなこと知らなくてもいいんだ。嫁さんのためにも、買って上げなよ」
「ああ、わかった」
 主が財布を持って戻ってくると、ゴム紐の押し売り男は消えていた。
 最近季節外れの蚊のように、ストレートな押し売りが湧くらしい。
 
   了
   


 


2010年3月29日

小説 川崎サイト