小説 川崎サイト

 

溜め池

川崎ゆきお




 オリンピックのメダリストも出している大学の水泳部がある。
 メダリストの水木は大学に残り、コーチをしていた。今もこの水泳部は名門だが、日本代表の選手が一人いる。
 運動部のOBは煩い存在だ。たとえメダリストだったとしても。
 学生と十歳以上離れると、全く違う世界の住人のようになる。コーチはこの前まで現役だったので、まだ忘れられた存在ではない。いわば有名人だ。
 水泳部の学生たちも、いずれ自分もOBとなり、後輩たちを指導する立場になることを想定していたため、先輩後輩の関係は絶対的なものとして受け入れている。
 水木はそれは分かっているのだが、部員たちから煩がられているような空気を感じていた。煙い存在なのだ。たとえメダリストであったとしても。
 水木の気持ちを理解してくれる先輩が逆にいない。この大学からオリンピックへ行ったのは水木だけのためだ。
 大学のコーチではなく、水泳関係の団体に入ろうかとも思ったのだが、年長の先輩が多くいる。それは水木にとっても煙たかった。
 そんな心情の時、ぶらりと校外へ出た。大学は山の裾野にあり、自然が豊かで、一人歩きには都合がいい。
 実はこの大学近くに、メダリストがもう一人いるのだ。
 彼の名を畑中という。もう老人だ。
 水木はその畑中と偶然出合ってしまった。ちょうど溜め池の畔でだ。
 老人は下着のまま溜め池から怪獣のように出現したのだ。それがメダリストの畑中なのだが、水木は気づかない。ただ、こんな汚い溜め池で何を捕っているのだろうかと思っただけだ。そして声をかけてしまったのだ。
「選手に選ばれてね。手ぬぐい一枚で外国へ行ったよ。もう昔の話だ。工場からの帰り、毎晩この溜め池で練習したものだよ。とんがった水草があってね。あれに引っかけ、何度も怪我をしたよ。だから、あのとんがりのないコースを選んで泳いだのよ」
「タイムは誰が」
「タイム、ああ、自分ではかったかな。目覚まし時計で。ただ、何メートル泳いだのかは分からない。あそこの岸があるだろ。あそこは少し深いんだ。その手間でターンした。ターンと言っても途中で引き返すだけだけどね」
「日本代表だったのですか」
「そうだ、僕が一番早かったからね」
「コーチは」
「そんなのいないよ。一人で飛行機に乗っていったよ。もらったのは切符と、それと飛行機会社が鞄をくれたよ。それと新聞社から手ぬぐいをもらった。着替えるとき必要だからね。でも、僕は競泳パンツをはいたまま飛行機に乗ったんだ。なくすといけないからね」
「記憶にないのですが」
「君はまだ産まれていなかった頃だよ」
「でも、オリンピックでしょ」
「ラジオで流れたようだよ」
「優勝したのですか」
「金メダルだ。金に困って今は持ってないがね」
「引退後、どうされました」
「引退も何も、アマチュアだよ。試合が終わって、すぐに工場へ行ったよ。それで定年まで勤めた」
 老人は、淡々と喋り、また溜め池の中に入っていった。泳いでいるのか歩いているのか、よく分からない。
「あのう」
「なんだ」
「競技用パンツ差し上げましょうか」
「はきかえるのが面倒なのでいい」
「あ、はい」
 老人は、ターン場所である向こう岸へ、まるで溜め池の主のように進んでいった。
 
   了
   

  


2010年4月8日

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