小説 川崎サイト

 

乗り心地

川崎ゆきお




 いつも寝起きの悪い吉田だが、その日はしっかりと起きた。
 目が覚めたとき、すぐに思い出したからだ。
「銀行に大金が振り込まれている」
 吉田は寝起きすぐに銀行へ走りたかった。
 いつもなら、一時間ほどは寝床でグダグダしていた。起きても面白いことは何もない。我慢するだけの一日が待っていたからだ。
 しかし、それらがすべて解決する。大金が入ったからだ。
「これで生きた心地がするわい」
 吉田はしゃきりと起き、銀行へ向かった。
 吉田が早起きなら、銀行が開くまで待たなければいけない。幸い昼前に起きるので、すぐに現金をおろせる。
 銀行でとりあえず九千円をおろした。残を見ると得心のいく金額で、当分生活費に困ることはない。そして、よけいな無駄遣いができるほどの余裕もある。今まで我慢して買えないでいたものが買えるのだ。
 九千円をおろしたのは、千円札の方が使いやすいからだ。最近は数百円のものしか買っていないので、万札は必要ではない。
 銀行を出た吉田は駅前で天麩羅定食を食べた。もう何年もこんな贅沢なものを食べたことがなかった。
 海老の歯ごたえが幸せの歯ごたえだった。
「さて、どうするか。何でもできるぞ」
 吉田は我が世の春がきたように喜んだ。
「まずは新しい靴下を買いたい」
 その日から、吉田の日常は落ち着きのないものになった。いつもは不機嫌で、元気がない吉田だが、意外とそれがある種の落ち着きになっていた。
 非常に安定した底辺の世界だ。
 人生に転んだものの、その姿勢は安定していたのだ。
 靴下を買っても、まだ物足りない。もっと贅沢をしてみたい。また、それができる金銭的余裕がある。無駄遣いしても今なら許される。あるところから、またいつもの生活に戻ればいいのだ。
 そして、吉田は物欲世界に入り込んだ。
 買いたいものが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
「もったいない」
 本当に必要なものなら、買えるのだが、もう贅沢品は買えない体質になっていたのだ。
 それは、苦しくなったときのことが頭に浮かぶためで、今、ここで使ったお金が、生活費の寿命を縮めてしまうためだ。
 それでも、金銭的余裕をどこかで具体的に表したいと思い、新しい自転車を買うことにした。
 吉田は万札を銀行からおろした。残額はビクともしない。
 新しい自転車に乗り、吉田は颯爽と町を走った。
 しかし、錆びだらけの、あの自転車で覇気のない走り方をしていたころの方が、気持ちが落ち着いていた。
 高価なスポーツタイプの自転車の乗り心地はよかったが、吉田自身を吉田が乗る乗り心地はあまりよくなかったようだ。
 
   了

   


2010年5月31日

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