小説 川崎サイト

 

塗り箸

川崎ゆきお




「私はなぜここの立ち食いそばを食べているか、わかるかね」
 本村は「来た」と感じた。本村は非常に鋭い感受性の持ち主ではない。だから鋭い勘が働いたわけではない。「来た」と受け止めただけのことだ。
 では、どう受け止めたのだろうか。何を受け止めたのだろうか。
「私は金がないから、立ち食いそばを食べに来ているわけではない。そこを間違わないようにしてほしい」
 男は本村のすぐ横で食べながら話しかけている。
 本村は注文した天ぷらうどんを待っている最中だ。
 それを作っている中年のおばさんは表情を変えない。男の存在を無視しているのだろうか。
「ここでそばを食べるより、向こうにある牛丼屋で、牛丼を食べた方が安くつく。それに座って食べられる。ある意味私は贅沢なことをしている。
「ある意味って、どんな意味ですか?」
 本村はうっかり話に乗ってしまった。無言だと、横の男の独り言で終わることだ。それを知ってか天ぷらそばをカウンターの上に置いた中年のおばさんの表情に若干曇った表情が浮かんだ。その表情とは、眉間にわずかながら皺が寄ったのだ。しかし、それは片手でぐっと天ぷらうどんをカウンターの上に置いたときの力みかもしれない。
「ある意味?」
「はい」
「決してこれは世間でいう贅沢ではないという意味だ」
「私的な贅沢ってことですね」
「その通り。ここで皮だけのエビの天ぷらそばを食べるより、牛丼屋で肉を食べた方が効率がいい。腹持ちもいいし、タンパク質も補給できる。しかも時間をかけてゆっくり噛んで食べられる」
 本村は封印を切ってしまったように感じた。この感じは感じではなく、そのままだが。
「風雅、風流。趣。それを楽しむ食を、今私はやっている」
 やっている……という言葉が、本村はおかしく聞こえた。
「だから、私は決して貧してここに立っているわけではない」
 男は、出汁の中に浮いていうネギを箸ではさみ、口に入れる。
「趣の二つ目は、この箸じゃ。割り箸ではなく塗り箸だ。洗えばまた出せる。だが、これは滑りやすい」
 これを聞くだけですむのなら、それほど被害はないと本村は思った。
 そう思いながら、思うと、感じるの違いはどこにあるのだろうかと、ふと考えてしまった。
「私が牛丼屋に行かないのは、この違いにある。あちらも塗り箸だが、よく滑る。あれでははさめん。つるつるじゃ。指を捻挫しそうなほどにな。ところが、同じ塗り箸でも、このそば屋のは滑りにくい。いいものを選んだと思う。本当は割り箸がいいのだがね」
 本村は、もう天ぷらうどんを食べ終えていた。
 男は残ったネギを箸で探している。しかし、ネギは浮いているはずで、沈むことはないはずだ。だが、そういうネギもあるのかもしれない。
「ごちそうさんでした」
 本村は食べ終えたので、そのまま店を出る。出るといっても二歩進めば、敷地内から出てしまえるのだが。
 男は何か声を発していたが、聞き取れなかった。
 しかし、実際にはそんな男は最初から存在していない。
 その男は本村の想像上の人物なのだ。
 感じというものがある。そういう男がいそうな感じを本村は感じたわけだ。
 そして、会話すれば、こんな感じになると想像しただけのことだ。
 
   了


2010年9月22日

小説 川崎サイト