小説 川崎サイト

 

春の行軍

川崎ゆきお



「暖かくなってきましたなあ」散歩者の上田がいう。その相手も散歩者の立花だ。二人とも老人で、家でごろごろしている。隠居さんだ。
「寒いときは無邪気に散歩などできないものです」
「無邪気に?」上田が聞き返す。
「そう、戦場へ向かう行軍中の兵士のような引き締まり方になる」
「立花さんは戦争へいかれたのですか。いやいや、そんな年じゃないはず。それに、行軍とは徒歩ですか」
「馬にも乗る」
「戦車じゃなく」
「戦車は虎の子でな、これはトラックで運ぶ」
「昔の日本の陸軍の話でしょうか」
「ああ、そのイメージだ」
 立花にはそういった経験はない。
「でも、散歩中を行軍だとすると、どこへ向かっているのでしょうな」
「最前線かな」
「でも、一周して家に戻るのでしょ」
「まあ、そうだが」
「すると、家が戦場だとでも」
「そんなことはない」
「戦場って、生きるか死ぬかでしょ」
「寒いときの散歩は、そんな身構えだった」
「ああ、それは知りませんでした。私は雪の八甲田山で遭難したイメージでしたなあ。生きて温泉に入りたいと」
「八甲田山の遭難も行軍だろう」
「そうですね。演習でしょうか」
「どちらにしても、寒いときの方が、気が張ってよい。こう暖かいと締まりがない」
「でも歩きやすいじゃないですか」
「いや、やはり何かハンディーがある方が歩くのは楽しいのだ。雨が降っているとか、風が強いとか」
「なるほど、抵抗体が必要なわけですね」
「そう、だから小春日和の散歩日よりは、実は一番散歩に適さぬ天気なんだよ、逆に眠くなっていかん」
「春眠ですな」
「ああ、だから、歩いていても眠い眠い」
「じゃ、気を付けて一周してください」
「ああ、ありがとう。あんたもな」
「はい」
 
   了


2011年4月9日

小説 川崎サイト