小説 川崎サイト

 

前方注意

川崎ゆきお


「これは幻覚ではなく錯覚でもない。幻想的とでも言うのだろうか」
「伺いましょう」
「聞いてくれるかね。与太話のようなものを」
「はい、ご随に」
「仕事の帰りだ。自転車通勤でね。いつも夜になる。遅い時間じゃないが、そろそろ店屋が閉まるような時間だ。食堂とかね。それで、いつも駅前の横断歩道を渡るんだが、信号があってね。三日に一度は立ち止まる。だから、三日に二回は信号待ちしないで渡っている。これは確率の問題だよ。信号って、何時何分何秒に毎日決まった時間変わるとは思えない。二十四時間信号はついている。しかし端数が出るはずだ」
「信号機の話ですか」
「違う。その横断歩道の向こう側に篠山屋という餅屋がある。赤飯やおはぎなんかも売っている。看板も明るいが、店内も明るい。まぶしいほどだ。電気代かかるのにね。三日に一度と言ったのは、信号待ちの時、何となく見ているんだ、その店をね。真っ直ぐ前を見てりゃ、どうしても見えてしまうのだけど。それで、駅前まで来ると、篠山屋まで戻ったって思うようになった。行くときは篠山屋は背中になるからね。実際には見ていないんだ。だから、帰り道だけ、篠山屋を見ている」
「篠山屋の話ですか」
「そうだ」
「はい、やっとポイントが決まりました」
「何の?」
「お話の」
「あ、じゃ続けるよ」
「はい」
「うどん屋になっていたんだ」
「あ、つぶれたんですね」
「毎日、その前を通っているだよ。篠山屋がうどん屋になるのはいいけど、一日じゃ無理だろ。看板もあるし、内装も変えないといけない。それが、昨夜篠山屋だったのが、今夜うどん屋になっている。これはどういうことだろう、という話だ」
「一日で、改装したんじゃないのですか。看板も取り替えれますよ」
「篠山屋になる前は、実は立ち食いうどん屋だったんだ。かなり古い店でね。粗末な掘っ立て小屋のような店だった。それがつぶれて、しばらくして餅屋の篠山屋になったんだ。経営者は別だと思うよ。うどん屋は老夫婦がやっていたからね」
「では、どういうことでしょうか」
「だから、一番最初に言っただろ。この話は幻覚でもないし、錯覚でもない」
「幻覚や錯覚ならあなたが見間違えたということですね。勘違いしたとか」
「その翌日、帰り道、また横断歩道を渡った。すると篠山屋に戻っていた」
「じゃ、幻覚を見たんじゃないのですか」
「じゃ、私は病気か」
「または、違う道で見たとか」
「いや、あのうどん屋は二つとない。似たようなうどん屋はない。それに場所も、駅前の横断歩道。これも間違いない」
「じゃ、何でしょう」
「だから、最初に言っただろ。幻想的な話だって」
「え、どういう意味ですか」
「思い出したんだろうね、つぶれたうどん屋を。その映像が残っていたんだと思う」
「じゃ、やはり幻覚や錯覚、勘違いのたぐいじゃないのですか」
「まあ、そうなんだが、目で見ていなかったのかもしれん」
「前をよく注意して運転しないと」
「うん、そういう問題ではないんだが、そのうどん屋、篠山屋よりずっと長く見てきていたんだ。たまに食べに入ったこともある。だから、今でもあの横断歩道を渡ると、うどん屋があると思ってしまう。実際には目が先に篠山屋を発見し、そんなことにはならないんだがね。あの夜はぼんやり渡っていたから、篠山屋を目でとらえていなかったんだよ」
「危ないですよ」
「どういう意味だ」
「二つです」
「二つ?」
「前方不注意で危ないです」
「もう一つは?」
「それは、言えませんが、お大事にしてください」
「何だろう」
 
   了


2011年8月3日

小説 川崎サイト