小説 川崎サイト



三桜ホテル

川崎ゆきお



 倉橋は電動アシスト自転車を買った。まだ足の力が弱るほどの歳ではないが、引っ越した町は坂が多かった。変速機付きの自転車でも上り切れない坂がある。
 買ったその日に冒険に出た。今まで息を切らせながら上っていた坂を嘘のように進めた。
 山の中腹まで宅地となり、そこから下を見ると市街地や海が見える。山を越す道はこの町にはないが、一番奥まった沢まで道が続いている。宅地になる前からあった道で、沿道にドライブインやホテルがある。
 道の果てるところに三桜ホテルがあり、既に営業はしていない。廃墟と言ってもよい。町の人も宅地が終わるところから先へは行かない。用事がないからだ。
 倉橋はその宅地の先へ踏み込んだ。それまでの風景とは趣が違い、山の荒々しさが現れだし、沿道には放置された喫茶店や展望台跡がある。明らかに違う空間だ。
 それでも会社の保養所らしい建物は生きているようで、門から車が出てきたりする。そこを過ぎると、もう人は住んでいないのだろう。
 下から三桜ホテルが見える。道が沢から山腹へ延びているのはホテルがあるためだ。
 倉橋は苦もなく坂を上り切り、三桜ホテルの玄関先へ進み出た。
 ここまで来たのだから中を覗いて見ようと思った。市街地からもこの建物はよく見えており、それだけに気になっていた。
 倉橋が入った玄関は展望レストランのようで、窓際に組み込まれたテーブルがそのまま残っていた。
 まだ明るい昼間だと思っていたのだが霧がかかり、市街地や海が見えないほど視界が悪い。倉橋は心細くなってきた。すぐに引き返すべきだった。
 携帯で妻に居場所を伝えた。
 携帯を閉じたあと、倉橋の顔は青ざめていた。山に霧などはかかっていないらしい。
 倉橋は、やってるやってると思いながら、ゆっくりと展望レストランを出た。
 玄関先の駐車場らしい広場も見えないほど霧で真っ白だ。温泉でも湧いているのかと、まだ冗談が言えた。
 そして電動アシスト自転車を探しているうちに、向かってはいけないホテルのロビー側へ進んでいた。
「いらっしゃいませ」
 いつの時代のホテルマンだろうか。倉橋は剥製のよに乾燥した男を見ながら、ああ、やってるやってると呟いた。
 
   了
 



          2006年7月4日
 

 

 

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