小説 川崎サイト

 

柏餅

川崎ゆきお



 蓮の花は咲いていない。しかし葉は浮いている。
 歯が浮いた状態。下田は歯痛を感じている。鋭利な痛みではないので我慢できる、
 パソコンの前で、マウスを何度も何度もクリックする根気仕事をやっていたからだ。
 庭園のようだが、非常に自然だ。作られた感じはしない。蓮の葉は池を覆っている。庭木も伸び放題だが、枯れるべき木は枯れ、伸びるべき木は伸び、それぞれ領地を得ているようだ。
 下田は蓮の葉に足をかけた。ぐっと沈む。微妙な弾力があり、やや横に揺れたようだ。一メートル以上はあるだろう。幼児なら、乗れそうだ。
 下田は体重が軽いので、いけるかもしれない。しかし、すぐに無理だと諦める。池にはまったことを想像すると、着替えの問題なども含め、やっかいなこと、面倒なことになるためだ。そこまでの冒険心はない。
「僕に欠けていたのは、この冒険心かもしれない。だから、だから、会社でも出世せず、マウスのクリック仕事ばかり任されている。こういうのは新入社員がやればいいことだ。なのに、三年たっても、それをやっている。いい企画を提出し、それをものにすれば、地位が上がるほどだ。しかし、企画書を出す勇気がない。強制されていないからだ。義務はないが、権利はある」
 と、ぼやいていると
「危ないですよ」と庭師が声をかける。
「あなたは?」と、下田は見れば分かる服装の庭師にくどく聞く。
「極楽にも庭師がいるんでさあ。手入れしないとね。極楽の蓮の池の花が咲かないと、絵になりませんからのう」
 しかし、庭師が手入れをしているとは思えない庭だ。下田はそれを聞いてみた。
「自然の振る舞い。これが大事なんでね。庭師が下手に手を入れるとバランスが壊れる。雑草だって、強いやつ、土地にあったやつが生き残る。そこに下手に妙な草花を植えるから、手入れが面倒になるんでさあ。私ゃそういう庭は造りたくなくてね」
「じゃあ、何を手入れしているのだ」
「していないよ」
「じゃ、庭師はいらないんじゃないのかい」
「私ゃ造園じゃなく、観察専門でね。庭の様子を見て、天地異変を知る。どうだね。さすがに極楽の庭師だろ。やることが違う」
「この蓮の葉は、異変じゃないですか」
「よく分かったねえ。これは外来種だ。こんな大きな蓮の葉は極楽にはない」
「あったような気がしますが」
「それは誇張して書かれた極楽蓮の池だわ」
「乗れるでしょうか」
「乗れるが、バランスを崩して、落っこちるよ」
「乗れるんだ」
「足場が悪いからね、転倒するんだ」
「じゃ、腹ばいになって乗ればいいんだ」
「あんな賢者だねえ」
「でも、どうして外来種が」
「知らないよ。誰かが、ここに入れたんだろ。その前まであった蓮は全滅した。縄張り争いに負けたんだ」
「リアルですねえ。極楽も」
「まあね」
 下田は柏餅の中身のような体勢で、腹ばいになり、蓮の葉に乗った。くるっと葉が下田を包んだ。まさに柏餅だ。
「どうだね。はみ出しているが、いけそうかい」
「いやいや、身動きできません。これじゃ気持ちよくない」
 蓮の上に乗ることは出来たが、戻ることが出来ない。
 庭師は蓮の茎を持って引っ張ったが、水際までで、持ち上がるものではない。
 仕方なく、ズボンの紐を下田に投げ、柏餅の中身だけ抜き取ることにした。
 下田は庭に上がれたが、ずぶ濡れだ。
「初めての経験なので、失敗したが、今度は濡れないで、上がれるようにする」
「ああ、建設的な意見だね」
 下田は結局衣類が濡れ、面倒なことになった。
 そして、この面倒ささえなければ、冒険する気になれるのだが……と呟いた。
 
   了
   


2011年10月15日

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