小説 川崎サイト

 

私の世界観

川崎ゆきお



 自分の世界観で物事を見ている。という人がいるが、しっかりとした世界観だろうか。この場合、世界というのは大げさで、風呂敷が広すぎるのではないか。せいぜい自分はこう感じている程度だろう。世界は広い。だから、個人の世界観など穴だらけだ。
 世界は広くも狭くもなる。伸縮自在だ。
 世界という言葉、これも個人により使いかがまちまちなのだ。決まった条件や状態で言い表していない。
 世界なら、世界地図がある。宇宙の地図もあるだろう。日本史と世界史とは違う。ここでは日本史より世界史のほうが広い。だが、世界史の中でもあまり触れられていない世界がある。だから、地球上のすべての歴史ではない。
 全世界。それはまだ地球上の世界だ。そして世界より広いものとして宇宙が来る。
 だが「私の世界観ではなく」「私の宇宙観」と言えば、星の世界になる。宇宙の話になると、町内のたばこ屋の話を語っている場合ではない。
 では世界観とは何だろう。
 そこに「私の世界観」と「私」を付けることで、何とか括り付けることが出来る。私が勝手に、固有に思っている感じ方や常識だ。この時点でもう世界は潰れている。
 固有の事情が世界を作る。
 世界という括り方ではなく、結界の張り方ではないか。
 個人の中に結界があり、互いにそれを張り合っているのかもしれない。
 下田は、「私の世界観」という作文を命じられ、上記のようなことを考えた。
 これは社会科の授業での宿題だ。
 正しい解答を探すには、前提を考えればいいことに気付いた。世界を絞るためだ。社会科の先生が求めている作文としての世界観が正解だ。社会科の先生なので、宇宙までは広げなくてもいいだろう。
 それ以前に、社会科の、あの先生が考えている世界観は何だろうかと下田は考えた。それに合わせた作文を書けば無難だろうと。
 それで、下田は「社会」とは何かを考えた。この場合、社会に近い言葉を探すことで、他の言葉との違いを見いだし、絞り込める。
「世間」がふさわしい。だが、「社会人」はあるが「世間人」とはあまり言わない。「渡世人」ではやくざだ。やくざの社会、やくざの世界。これはいける。ある。
 これで「社会」はいける。だが、さらに点数を上げるには先生の世界観に近いものに味付けする必要がある。
 あの先生の世界観など分からない。ただ、どういう先生なのかは雰囲気で分かる。授業中雑談をしたり、たとえ話が長くなり、教科書からはみ出ることもある。
 それがあの先生の世界観だろうか。
 そんな大層なものではなく、ただの印象だ。
「そうだ。印象派でいけばいい」
 下田は、自分についての印象か作文することにした。
 ただ、それは自覚できる範囲での自分の印象だ。印象なのだから、自覚できる箇所しかイメージできない。
 そして、下田は自分についての印象か書き出したのだが、何となく恥ずかしくなって、途中で止めた。
 そして、提出したのは、家庭や友達や学校内での自分の話にした。 その後、先生からいただいた点数は五十点だった。もし、書いていて恥ずかしくなるような事柄に触れていたら七十点になっていたのではないかと後悔したが、たかが宿題の作文に、そんな苦しいことはする必要はないと、後悔を止めた。
 このあたりが、下田の世界観のようなものではないだろうか。
 
   了



2011年12月17日

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