小説 川崎サイト

 

マグロと紅色提灯

川崎ゆきお



 単身帰任で、地方の小さな町で宮本は暮らしている。
 夜など寂しいので、町一番の繁華街へ飲みに行く。商店街に少しだけある飲食街だ。歓楽街と言うほどの規模はなく、スナックや赤提灯が数件あるだけ。毎晩ではお金がかかるので、立ち飲み屋で飲んでいる。当ては缶詰だ。
 その夜はマグロの缶詰をつまんでいた。
「そのマグロより、こっちのマグロのフレークのほうが量が多いですよ」
 横の男がつまらないことを言う。
 宮本にとり、どうでもいいことだが、無視するわけにはいかない。
「最近よく見かけますねえ」
 マグロのフレークを開けながら、男が世間話に持ち込もうとする。一人で飲むより、いい酔いになるのだろうか。
 宮本は一人静かに飲むタイプだ。店の人に話しかけられれば別だが、この飲み屋の婆さんは無口だ。
「いいところ、あるんですけどね。行ってみませんか。吉田別館です。秋本の紹介で来ましたと言や、案配してくれますよ。いやいや変な場所じゃありません。客を紹介したことになるので、私にも見返りがあるんでね。親切で言ってるわけじゃないです」
「吉田別館。何です。そこは」
「この商店街の終わる手前で右へ抜ける路地があります。もう普通の民家しかないですがね。その狭い道をずっと行くと、場が開けます。その中に吉田や別館があります。入るのなら、吉田別館ですよ。探せば分かります。大きな建物ですから」
「ちょっと待ってください。この飲み屋街以外に、まだそんな店があるのですか」
「店じゃないですよ。家です」
「家」
「昔の遊郭です。不夜城ですよ。そこは。紅色の提灯が眩しいほどです。人は少ないですがね」
「はあ?」
「そこへ行くのは、この町の人だけです。しれてます。だから、大勢の客が歩いているわけじゃないってことです」
「じゃ、ここより賑やかな場所が、この町にはあるんだ」
「ありますよ。でも、高いから行かないだけですよ」
「それじゃ潰れるでしょ。客が少ないんだったら」
「なーに、それは祭りのようなものだからね。金儲けでやってるわけじゃない。一応料理屋ってことになってる。料理旅館です。まさか、女郎屋だとは言えないからね」
「はあ」
「金があるのなら、行ってみなさいな。明け方までやってますよ」
 宮本は欺されたと思い、行ってみることにした。
 勘定を払うとき、婆さんが苦そうなものでも口に含んだように苦笑した。
 商店街の端は、宮本の戻る場所とは反対側だった。行ったことはないが、何もないことは知っている。しかし、そんな路地があることは知らなかった。
 そして、場末らしい場所に出る手前で、右側へ入れる路地を見つけた。心なしか、その先は明るそうだ。トンネル内から外の光が漏れているような。
 足を踏み込んだ瞬間。妙な調べが流れてきた。愛の手の声も聞こえる。三味線の音かと思ったがそうではない。聞き覚えのある調子だ。ゆったりとした調べで、あの世から漏れ聞こえるような、あの音色だった。その音色は、お囃子で、聞いた記憶のある祇園囃子だった。
 あのマグロのフレークが言ったことは正しかったのだろうか。
 そして縁日の屋台が並んでいるような明るい場所に出た。
 一見して旅館街だ。どの家も二階屋で、明かりが煌々と漏れている。大きな提灯には屋号や紋が記されている。
 宮本は、吉田別館を探した。
 格子戸の中に人がいるのが見える。何人か座っている。女郎だ。前を通ると、複数の女郎が、一斉にこちらを見ている。
 それよりも、これは化け物だろうと、すぐに想像できたので、目を合わさず、通過した。
 吉田と書かれた提灯を発見する。
 宮本が中に入った瞬間、闇が来た。
 枝道の、あの路地の中にいる。そして、もうその先には紅色の明かりはなかった。
 翌日、立ち飲み屋へ行くと、マグロのフレークが先に来ていた。
「どうだった」
「幻を見た。不思議だ。でも、吉田に入ったときに、戻された」
 マグロのフレークは残念そうな顔した。
「言ったでしょ。吉田別館だって」
 宮本が入ったのは吉田の本館だった。
 一体どんなからくりなのかは知らないが、宮本は今夜はしっかりと別館を探すことにした。
 
   了


2012年1月22日

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