小説 川崎サイト

 

高橋劇場

川崎ゆきお


 久しぶりに行きつけの喫茶店に入った高橋は、周囲の様子を観察した。
 行きつけの喫茶店なのだが、久しぶりなので、行き着けていない店になる。しかし、それまでは毎日のように寄っていたので、初めての店ではない。やはり行きつけなのだ。それは過去であろうと。
 危害を加えられるおそれがあるため周囲を見渡しているわけではない。自然と変化に気付くのだ。
 しかし、特に変化はなかった。
 この店は複数のバイトで運営されている。総勢十人ほどだろうか。高橋はそのすべての顔や性質まで知っている。十人十色だ。
 その日は、その中の二人が店に入っている。話したことはないが、態度、物腰で性格が分かる。丁寧な人と、そうでない人がいる。いずれもこの場だけの芝居、演技かもしれない。私生活では、逆の性格になっている可能性もある。だから、高橋の観察は、正確なもの、真実ではなく、あのバイトとこのバイトの違いを見分ける程度の記憶にすぎない。それで十分だろう。それ以上の関わりはないのだから。
 その日はおっとりとしたバイトと、きびきび働く敏捷系のバイトが組んでいた。おっとりタイプが接客し、きびきびタイプが飲み物などを作っている。逆ではないかと思うのだが、そうではない。早く作る人のほうが効率がいいためだ。接客といっても、注文を聞くだけだ。そして、おっとりタイプなので、見た目が柔らかい。だから、そうなったのだろう。
 ただ、高橋の意見は違う。客が増えたとき、おっとりタイプでは客を待たせてしまう。注文品が来るまで待つことは難しくはない。だが、まだ注文を聞いてもらえない状態で、待つほうが苦痛だ。これは高橋の意見だが、高橋がそうだから、そういう意見になっている。人というのは我が身を基準に考える。これが、一番確実なためだ。想像ではなく、思い当たる現実が我が身にあるからだ。
 では、公正な判断とは何だろう。高橋自身は、そうとは思わないが、他の人なら、きっとこうだろうという判断だ。これは、証拠がない。状況証拠だけだ。しかし、我が事のみの基準では、我が勝ちすぎる。我を通すように見られてしまう。
 と、高橋は、久しぶりに来た喫茶店で、これだけのことを考えてしまう。これを高橋は観察だという。そして、その観察は、決して無理との観察ではなく、自然とそう感じてしまうところの観察なのだ。
 そのため、喫茶店でコーヒーをゆらりと飲んでいるだけの老人だが、頭の中ではすごい人間ドラマが演じられているのだ。
 これは妄想ではない。ちょっとした事柄でも、拡大し、膨らまし、楽しめるタイプなのだ。そのため、これは観劇に近い。
 人生はドラマだ。しかし、参加せずとも見ているだけでもいいのだ。
 当然、高橋はこれまで様々な人生ドラマを演じてきた。だから、当事者でもあった。キャラの情報は、そこで得た経験から出ている。
 そして、その経験が必ずしも当たっているとは限らないことも知っている。
 想像とは、間違っているかもしれないというところがあるからスリルがある。
 久しぶりに来た喫茶店で、高橋はその想像劇場を楽しんだ。特に語るほどのことでもないのだが。
 
   了


2012年2月24日

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