小説 川崎サイト

 

ゆさゆさの眼鏡

川崎ゆきお


 沖山は、踏んだ覚えはないが、やはり踏んだようだ。踏み絵ではない。
 踏んだのは老眼鏡だ。踏むわけがないとは思っていなかった。踏む確率がかなりあることは承知していた。だから、踏まないような配慮は多少やっており、それは日常的に気を使っているアクションでもある。
 それを踏んでしまった。予想外ではなく、想定内だ。
 沖山はトイレで本を読む。そのとき、老眼鏡と本を持って入る。老眼鏡は柔らかなケースに入っている。だから、眼鏡ケースと本を手にすればいい。
 そして、気づいたのは眼鏡をかけようとしたときだ。ゆさゆさなのだ。違う眼鏡を持ってきたのかと最初思った。眼鏡は布団近くに置いたはずだ。場所はわかっている。だから、それを持ってトイレへ向かい、途中で、郵便で届いた本を封筒のまま持ち込んだ。
 眼鏡は他にもある。テレビを見るための眼鏡は、文机の上に必ず置いている。本を読む老眼鏡は機動部隊のように、どこにあるのかはわかりくい。偶然、ある場所に置く。ある場所とは、使ったときの場所や、鞄から出したときの場所だ。
 だから、トイレでかけた眼鏡は、いつもの本を読むための老眼鏡だ。このタイプは一つしかない。従って、ゆさゆさになったのは、この眼鏡で、別の眼鏡ではない。そして、勝手にゆさゆさになるわけがないのだから、何らかの負荷が加わったのだ。それは、踏んだということだ。自分で。
 なぜなら、この家には沖山しかいない。たまに野良猫が入り込むが、眼鏡を曲げるほどの力はない。泥棒が入っていたとすれば、もっと部屋が乱されているだろう。だから沖山自身が踏んだのだ。もうそれを認めるべきなのだ。そして、これは一度ではない。何度もあった。
 眼鏡の玉が飛び出したこともある。戻せば、問題はなかった。今回は、蝶番箇所をぐっと押さえ込んだようだ。ここは堅い。本体と耳にかかる場所は長い。ここは滅多に曲がらない。踏んだとして、逃げるからだ。
 だが、蝶番箇所は逃げない。そのままぐっと沈み込む。これは指先では無理だ。そんな力は沖山にはない。ただ、押し込むのなら、指先でも可能かもしれない。ただ、それを戻すとなると、踏んだときと同じ重力が必要だ。しかし、踏み戻せない。反対側に足が入らないためだ。
 トイレにしゃがみ込んだまま、沖山は眼鏡の修復を行うことにした。根本は曲がっており、ここは無理なので、長い箇所を弓のように曲げることにした。これは、大した力はいらない。それに持つところが豊富にあるので、何カ所も曲げた。すると、弓のように内側へ曲がった。これで、両耳の間隔と同じ程度に戻ったことになる。
 上から見ると、左右対称性が損なわれている。根本は大きく開いているものの、蝶番から弓なりに反れながらも何とか収まっている。
 そしてかけてみると、しっかりバネが伝わり、止まった。これで、ゆさゆさが消え、フィットした。
 無事一件落着したので、封筒を破り、本を取り出す。読もうとしたが、すでに用を足してしまったらしい。
 もし、直らなければ、蝶番部の短い箇所にペンチを当て、ぐっと押さえ込めば、何とかなるとは思っていた。そこまでやる必要はなかった。
 自分で直した眼鏡は、やっと自分の眼鏡になったような気がした。
 今度は踏まないように、畳や布団の上に置くことを控えようと思った。だが、所詮眼鏡だ。潰れれば買えばいい。かけがえのない物ではないのだから、やはり、配慮は甘くなるだろうと、沖山は思った。
 
   了


2012年3月5日

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