小説 川崎サイト

 

菜の花の道

川崎ゆきお


 いつも煙草を買いに来る老人が、「菜の花の道を見たよ」とコンビニ店員高橋に語った。二人は顔見知りで、高橋は中年にさしかかっているが定職はなく、フリーターだ。
 その時間、偶然客が少なく、話すことが出来た。それは店長から言われていたことで、お年寄りとは積極的に話しかけよとのことだ。その目的は常連客獲得にあるのだが、この老人は既に常連なので、その必要はなかった。
「菜の花ですか。このあたり咲いてますか」
 住宅地の中のコンビニで、田畑などない。
「いつもの散歩コースを歩いているとね。急に畦道が現れ、その左右に菜の花が咲いていたんだ。黄色い道だ。私もそれを見るようになれば、おしまいだね。そろそろ彼岸へ渡るのだろうね」
「その畦道を歩いたのですか」
「ああ、そうだと思う。でもすぐに戻った。ふつうの道路脇の歩道にね」
「そこに菜の花のような花は咲いていませんでしたか」
「さあ、歩道と車道の間に植え込みがあって、そこに花があったかもしれんが、あまり注意して見ていなかった。また、歩道沿いの家にも花はあるが、菜の花はなかったように思う」
「その歩道を歩いておられて、途中から、急に菜の花の咲く畦道に出られたわけですか」
「ああ、そうじゃ、しかし一瞬だよ。畦を歩いたかどうかまでは覚えておらん」
「足の感触はどうですか。歩道と畦道では違うでしょ」
「覚えておらん。変化はなかったように思う」
「その畦道は記憶にありますか」
「記憶?」
「どこかで一度見られたのでは」
「さあなあ、あれほど続く菜の花の道は覚えはない。まあ、子供の頃よく見かけたが、畦道の左右が菜の花でまっ黄色なんてのはない」
「それは何だったと思いますか」
「だから、あの世への入り口だよ」
「もう一度、思い出してください」
「何を」
「その映像です」
「映像。ああ、映像ねえ。テレビで見たかもしれん」
「その映像と近かったですか」
「ああ、それかもしれんなあ」
「じゃ、あの世の入り口ではないと思いますよ」
「そうかなあ。しかし、急に畦道が現れたんだからねえ。これは思い出したんじゃなく、目の前に現れたんだ。しまったと思ったよ。来たなって。引き返そうとした瞬間、消えた」
「その菜の花を見ていたとき、歩道は見えていましたか」
「どういうことかね」
「歩道から畦道へ切り替わったのか、歩道と畦道が二重写しになったのか、どちらでしょうか」
「そこまで、覚えておらん。今し方の話だが、他のことを思っているとき、目の前の風景が消えることがあるだろ。見えているんだが、見ていないような」
「じゃ、それですよ。お爺さん」
「そうかな。じゃ、なぜ菜の花の道が現れたんだね。別に思い出そうとしたわけじゃないし、菜の花のことなんて、気にもかけておらんかったのだからね」
「それはきっと思い出したんですよ」
「いや、思い出した記憶がない」
「思い出すと同時に映像が出たんですよ」
「何だって」
「意識する前に、映像が追い越したんですよ」
「君は面白いことを言うねえ」
「いえいえ」
「じゃ、その映像とやらが先走ったのかい」
「そうです。意識が遅れたのです」
「ああ、順番が逆になったのか。君は脳科学者かね」
「そうじゃないですが、少し心理学をやっていました」
「それがなぜコンビニで」
「仕事がないもので」
 レジに客がきたので、二人の会話は、そこで終わる。適切な切れ目だった。
 
   了


2012年4月13日

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