小説 川崎サイト

 

魔境へ

川崎ゆきお


 世の中は因果関係でできている。という説がある。「親の因果が子に報い」の、あの因果だ。原因があり、そして結果がある。その原因は何かよく分からなくても、知らないだけか、あるいはまた知られていないことかもしれない。
 因果の場合、悪い縁を指すことが多い。
 また、偶然も、それに先立つところに原因があり、これも、後で考えれば、ああそうだったのかと、判明することがある。
 ただ、人間の頭で思い付く範囲内の事柄に限られ、また一見、原因としてポピュラーでない場合、それは考慮されない。
 そして、何が原因でそうなったのか、最後まで分からないこともあり、実はこちらのほうがリアルかもしれない。
 松下が深夜の街に出たのは、何の因果だろう。いつもなら寝床で眠っている時間。何を思ったのか、外に出てしまった。外出だ。その時間、外に出ると不審者だ。まだ新聞配達の人も走っていない時間帯で、夜の中では一番深い。
 松下は不眠症ではなく、就職先が決まり、寝付けないのだ。興奮がおさまらない。これは悪いことではない。やっと決まったのだから、喜ばしいことだ。
 滅多にそんな喜びがないため、興奮し、いてもたってもいられないほど興奮した。その興奮が寝る時間になっても続き、頭が冴えに冴えた。
 それで、頭を冷やそうと外に出た。冬なら冷却効果があるかもしれないが、季節は春。しかも初夏を思わせるほど暖かい。桜は既に散り、新緑の季節を迎えている。だから、生き生きとした季節だ。
 松下は外に出たものの、どこへ行っていいのか、目的先がない。そんなときは因果が働くようだ。この場合因縁と言ってもよい。因縁とは馴染みだろう。そのため馴染みのあるところへ向かう。
 その流れで、いつもよく歩いている道や方角へ自然と足が向かった。それは駅前だ。
 松下が一番馴染んでいるのは、部屋から駅までの道で、ほとんどの用事はその沿道ですんでしまう。
 ただ、その道は一本ではない。袋小路のような場所にあるアパートから抜け出し、車がやっと通れる程度の小道を抜け、歩道のあるふつうの道路に出る。そこから駅までは一本道だが、古い町なので、駅は奥まったところにある。その幹線道路よりも先に駅ができている。
 頭の冷却期間として、駅までの往復はちょうどいい。夜道でもよく通っているため、迷うことはない。また、慣れているため、沿道の様子もよく分かる。ただ、こんな夜中に歩くのは珍しい。ここだけがいつもと違うが、時計さえ見なければ、いつもよく通る夜道だ。
 就職が決まると、給料がもらえる。安定した収入が得られるので、アパートからワンルームへ引っ越してもいい。また、クレジットカードにも入れるので、いろいろと買えるようになる。欲しかったものがいくらでもある。
 興奮状態なのは、実はこの物欲かもしれない。
 細い道は、さすがに薄暗いが、外灯の明かりでも十分だ。よほど狭い路地裏にでも入り込まなければ、暗い道など存在しない。
 松下の頭の中は物欲で満ちているため、夜の町並みなど、眼中にない。
 それでも、全く見ていないわけではい。なぜなら、それならぶつかる。
 そして、いつもの曲がり角から幹線道路に出た。
 深夜でも車は結構走っている。コンビニの明かりが遠くに見える。その向こうにはファミレスもある。夜中でも人が行き交っているのだ。
 通常の夜と、深夜の夜の違いが、街中ではない。多少車や人が少ない程度だろう。
 
 人の行為にはそれなりに意味がある。コンビニに近付いたとき、松下は牛乳のことを思い出した。ここでいつも一リットル入りを買う。
 まだ、残っているので、寄る必要はない。それに買うとしても戻り道のほうがよい。駅まで出て、またここを通るのだから。
 しかし、別の道を選ぶことも可能だ。駅でUターンしないで戻る道順もある。
 コンビニを見ただけで、これだけのことが頭の中で一瞬考える。それはほんの一瞬だ。この場合、言葉で考えるのではなく、パターンで把握しているのだろう。
 牛乳の残り加減は覚えている。中身は分からないが、重さで分かる。これなら、まだコップ二杯分はいけると。
 特に深い意味はない。日常の仕草とはそんなものだろう。
 そして、松下はコンビニ前を通過する。
 もうすぐ駅前だ。
 興奮は徐々に静まりつつある。よく考えると、正社員になることで、安定した収入を得られるのだが、その前に、働かないといけない。仕事が覚えられるだろうか。そして、長くやっていけるだろうか……と今度は入社後のことを考え出すと、喜んでばかりいられない。
 幹線道路は踏切に突き当たる。そこを左に回れば、線路沿いの細い道に入り、駅に出られる。一方通行の狭い道路だ。
 松下はこの時間の駅前に来ることは、滅多にない。過去、そんなことがあったのかと思い出そうとするが、記憶にない。夜中の駅前は何度か通っている。しかし、今夜ほど遅い時間は初めてのようだ。あったとしても忘れているのだろう。特に記憶に残るような出来事がなかったためだ。
 電車が走っていない時間帯の駅には用はない。それだけのことだ。
 駅前は暗い。
 駅舎には明かり点いているが、もう無人だ。誰もいないだろう。
 この駅の自動改札を、来月から新入社員として通過することになる。
 松下はふと不安を感じた。それは、採用通知の電話をもらっただけで、まだ何も契約していない。まさか間違い電話ではないだろうが、松下の名前を先方は確認しなかったように思える。ケータイなので、本人しか出ないと思ったのだろうか。
 この不安が当たると、根底から崩れる。しかし、それは常識的にはあり得ないミスだ。間違い電話などあり得ない。また誰かのいたずら電話とも考えにくい。やるとすれば友人の田中だが、そこまで悪趣味ではない。それに田中だと着信履歴が残るはずだ。登録してある。
 松下はケータイを取り出し、着信履歴を見る。会社からの電話は電話番号だけが表示されていた。きっと人事課からだろう。これを確かめるというのはどうかしている。そこまで疑うほど松下は病的ではない。
 そして、改札前に近付いたとき、改札口に何かがいることに気づいた。
 人影だ。
 しかも自動改札のゲート内だ。
 工事でもしているのかと思ったが、駅舎の照明だけでは暗いだろう。
 工事ではなく、誰かが改札に入り込んだのか。
 松下はケータイをもう一度取り出す。
 三時前。まだ始発の時間ではない。
 
 右側に券売機があり、電気は消えている。左側は壁だ。前方は自動改札。当然踏切のように遮断されている。
 改札は三つ。左から自動改札口が二つ。右に小窓付きの改札。ここは建物に面している。
 人影は真ん中の改札の右側にある仕切りにいる。人影の左側は真ん中の改札。右側は自動ではない改札。
 仕切りはそれほど幅はない。だから、自動改札の向こう側、ホーム側に立っているものと思われる。
 松下は駅に足を踏み入れる。三段ほどの緩い階段を上り、右手に券売機がくる地点まで近付いた。
 人影ははっきりと見える。その輪郭から駅員のそれだ。帽子の形で分かる。
 しかし、距離感がおかしいのか、改札の向こう側にいるはずなのに、自動改札の仕切の中央部あたりにいる。だが、そこにはポジションがないはずだ。仕切りの幅は二十センチほどだ。切符が流れる道だ。そこに立っていたとすれば、かなりのノッポだ。そんなことをする人間はいないだろうが、工事で、そこを足場にして立っていることも考えられるが、それにしてはライトを使っていない。だから、工事中ではない。
 それに駅員がそんなことをするわけがない。この駅は夜になると無人だ。
 立っていないとなると、腰掛けていることになるが、改札のどちら側にも下半身のシルエットがない。足が出ているはずなのに。
 松下は、そこでぞくっとした。もう考えられることは仕切りの上で正座しているしかないのだ。これなら、足がはみ出さない。
 だが、深夜の駅の改札で、誰が好き好んで正座などするだろう。しかし、物理的に不可能ではない。精神的にもそうだ。駅員が座禅をしているのかもしれない。どうせ人が来ないのだから。
 しかし、通りからそれはすぐに見られてしまう。だから松下もそれで発見したのだ。結構目立つのだ。夜とはいえ、改札前やホームには電気が点いている。
 もし駅員なら、そんなことはしない。冗談でそれをやっていたとしても、防犯カメラに記録されるだろう。
 座禅、もしくは正座姿勢の駅員の人影は微動だにしない。やはり座禅で精神統一中なのかもしれない。
 あるいは、これは看板。人影ではなく、駅員やお巡りさんの立て看板かもしれない。人型に作られたパネル。
 松下はさらに近付いた。薄暗いが、顔かたちまで分かる距離だ。きっと写真の顔ではないかと思ったのだが、肉のある立体的な顔だった。
 痩せた顔付きで、頬がこけ、顎などは骨のままではないかと思えるほど、薄気味悪い顔がそこにあった。駅員の目を注視し、瞬きをしているかどうかを確かめようとするが、非常に奥目だ。暗いため、窪みが二つある程度にしか見えない。
 松下は一番右側の自動ではない改札に足を入れた。本当は右に小窓があり、駅員がいるのだが、人影は左にいる。
 改札を抜けるとき駅員の横を通った。真横から駅員を見たことになる。正座でも、座禅でもなく、足を延ばして腰を下ろしていた。まさかそんなレールのように細い場所で、腹筋をやるわけではないだろう。
 松下が通ったことを、駅員は知っているらしく、顔を松下に向けている。首はどうやら回るようだ。
「通ります」
 駅員は軽く頷いた。
 松下は、ホームへ出る緩い階段を五つほど上った。振り返ると駅員の首は戻っていたのか、駅の外をまっすぐ見ているようだ。
 ホームの天井には蛍光灯がぽつんぽつんとある。全部点けていないのは、営業中ではないためだろう。
 松下は、この駅から電車に乗るときの定位置まで歩く。ホームの中央部から、もう少し先だ。ここは支線で、都心部へ出るには三つ目の駅で乗り換える。そのとき、二両目中程のドアから乗れば、降りたときのホームが、ちょうど都合のいい場所になるためだ。これは、乗換駅で、一番混みにくいドアの前につくためのポジション取りだ。
 
 ホームから周囲を見る限り、特に変化はない。ただ一点、例の駅員がいること以外。
 この一点は、ただ事ではないのだが、今の松下は、それ以外の変化を探している。
 そして、その変化は光から始まった。
 閃光。いや、線香花火をやっているような光が、レールの端で起きていた。そして、機械音も。ただ、その音は何かが崩れるような音で、規則的な機械音ではない。
 構内にそれが近付いてきた。閃光はパンタグラフから発している。パチパチとまるで花火のように。
 ホームに入ってくるのだから、それは電車なのだ。そして、それはあの駅員と同種の物だ。
 ブレーキが錆びているのか、こすれるときの、きつい音がする。音で驚くが、納屋が来たのではないかと思うような、旧式の木造車両。板張りだ。
 この電鉄会社の、一番古い車両に相当するのではないかと思える。そんな車両が走っているわけがない。
 木造車両はホームにぴたりと停まった。この支線の車両は四両編成なので、先頭車両はホームの中程だ。
 松下がいる場所は、四両編成の先頭に近い。昔はそこにホームはなかった。
 電車は黒い塊になっている。電気が点いていないのだ。明るい閃光は走っているときだけの火花にすぎない。
 ピー
 と、音が鳴る。笛だ。
 あの駅員が吹いている。発車の合図だろう。
 松下は先頭車両まで戻り、ドアを開けた。玄関雨戸のようなドア。これは、ドアとは言えないだろう。
 中は暗い。一両目は無人。運転席には誰もいない。
 松下が乗ったのを確かめたかのように、電車は走り出した。ガクンガクンと揺れがきつく、しかもクッションも悪い。
 座席は木のベンチのように堅そうだ。吊革は、本皮だろう。なにやら胃薬名が記された広告が貼り付けられている。
 駅を出ると、照明がなくなり、社内は真っ暗になった。
「そんなはずはない」
 線路沿いの道路は暗いとはいえ街灯が点っている。だから、その光が車内を照らしてもいいはずだ。
「乗ったときに入ったのだな」
 松下は、そう確信した。覚悟を決めるように。
 車内は暗いが、沿線はそれなりに光がある。沿線沿いに光源があるのではなく、電車の真上で光る花火で、ぴかっぴかっと照らされるのだ。
「来たなあ」
 外は花火のおかげで、なんなとなく見える。雷光で一瞬浮かび上がる夜景のように。
 そこは、松下が住んでいる街ではなかった。草が一面に生えている。野原なのだ。光はそこまでは届かないが、水平線の彼方まで草地のように思えた。野辺なのだ。
「野辺の送り」
 松下は若いのに、その言葉を知っていた。葬式なのだ。
 すると、この木造電車は棺桶ということになる。担ぐのではなく、レールの上を走っているのだ。しかし、二両編成なので、棺桶にしては大きすぎる。
 松下は二両目の車両へと移動した。もしかして、先の駅で、誰かが乗っていたかもしれない。松下と同じように。
 しかし、車両の端まで移動したが、それらしい乗客はいない。暗いので、見落としているかもしれないが、火花が車内まで差し込むほど明るい一瞬もあり、何か別のものが乗っていれば、見えるはずだ。
 二両目の運転席にも誰もいない。そこから線路を見ると、やはり野辺だ。草原地帯を走っている。また、複線だった線路が単線になっていた。
 
 松下はもう就職が決まったことなどどうでもよくなった。それとは全く次元の違う難題にぶつかったのだ。
 電車が停まった。
 降りろということだろうか。
 松下はベンチのような長椅子に座りながら、向かい側の窓を見ている。もう電車が停まったので、パンタグラフからの花火は出ていない。そのため、暗闇だ。
 しかし、窓枠が見えるし、窓であることが何となく分かる。実際には窓を見ているのではなく、窓の外を見ているのだ。車窓風景というようなのんきなものではない。戦場に近い緊迫した状態で、情報を一つでも多く得るため、目を凝らして見ているのだ。
 暗闇なのに、窓が分かる。
 松下はこの疑問に気付いていない。だが、そんなことを考える前に、外は徐々に明るくなっている。
「朝が近いのかもしれない」
 松下は降りることにした。
 しかし、車両から降りることの危険さを松下は認識していない。電車から降りるということはホームに降りるということだ。しかし、ホームがなければどうなるか。当然平行移動ではなくなる。ガクンと出した足が空を踏むだろう。
 松下は転倒した。飛び降りられる高さだが、それは分かっている場合だ。そのため、落とし穴にはまったように、いきなり落下した。
 幸い落ちた場所は、草むらだった。
 コンビニから駅前への移動中に、どうしてこんな草むらの中で倒れ込まなければいけないのだ。そして、ここはどこなのだ。
 それは考えてはいけないことかもしれない。
 空がやや明るくなった。松下は倒れたまま空を見ている。上にあるから、おそらく空だろう。
 松下は起きあがるため、草の上に手を当てた。そのとき、石のように硬いものに触れる。それはつかむことができた。思ったより軽い。
「骨」
 思わず投げ出す。
「野ざらし」
 白骨化しているのだ。
「ここが自分の埋蔵場所か。風葬の墓場か」
 記憶は連続していると思っていたのだが、そうではなく、一度途切れたようだ。なぜなら、コンビニから駅舎まですんなり来ている。そして、改札も滑らかに通過している。記憶は連続している。だが、そのはずだが、実はコンビニから駅舎までの間に、何かあったのだ。その答は簡単だ。事故に遭った。その記憶が飛んでいるに違いない。
 だから、ここへ来てしまった。
 しかし、交通事故だとしても、痛くも痒くもない。傷一つない。
「本当か」
 松下は不安になり、頭をなでる。体を触る。外傷ではなく、内蔵をやられていることもある。それで、腹をまさぐる。
 胸も押さえてみる。
 すると心臓の鼓動がしていた。
「死んではいない」
 
 車両から降り損なったとき、左の足首をねじったのか、少し痛い。松下は上を向いた状態で、しばらくじっとしていた。急いで何かをする前に、状況を把握しないといけない。そして非常に急ぐようなことなら、全速力で動く必要がある。だが、この足では走れない。また、どう動けばいいのかも分からない。
 松下は、せっかく入社できたのに、これではどこから会社へ通えばいいのだ。そんなことは誰にも分からないだろう。ここがどこなのかが分からないためだ。そして会社へ行くための通勤電車がこの様なのだ。こんな木造車両で行けるわけがない。
 白みかかった空はそれ以上明るくならない。
「夜明け前ではないのか」
 それには天は答えてくれないようだ。しかし、天から声が聞こえ、ヘルプ情報を松下に与えるようなことはしないだろう。
 松下はぐっと首だけを起こす。それで視界が空から水平線側へ移った。
「電車がいない」
 電車が消えていた。
 回送車ではなく、回収車ではなかったのかと松下は電車の意味付けを試みた。トロッコ列車のような感じがしたからだ。人を運ぶのではなく、荷物を運ぶ。だから、ゴミの回収車のイメージがある。
 松下はゴミではない。そして死んでいないようなので、死骸ではない。死骸なら自分で歩いて電車に乗れないだろう。
「ゾンビ」
 それはない。ゾンビ映画に出てくるゾンビの特徴が何もないからだ。
 松下は立ち上がる。線路はすぐ横にある。そこへ戻ろうとしたとき、歩き方がぎこちないことに気付く。まるでゾンビのようにゆっくりしている。ゾンビ歩きだ。
 しかし、そうではない。左足が痛いのでかばっているだけだ。
 薄暗さはそのままだが、日が出ていないだけで、結構明るい。立ち上がって分かったのだが、白骨があちらこちらにあるらしく、白いものが散らばっている。人ではなく、動物の死骸かもしれない。怖いので松下は確かめる気はない。人骨らしい髑髏でも発見すればショックだろう。ここは動物の死骸、鳥でもいい。そういうものの死に場所だと思うことにした。
 ここはグレーの空と草原とレールと骨だけで構成された絵の世界に近い。あまりにも単純な風景だ。
 五感を研ぎ澄ませる。
 まさに松下はこれを実践している。こんなことは彼の日常には滅多にない。パソコンゲームではあるが、リアルでは初めてかもしれない。すべての感覚を総動員しなければいけないほどの危機なのだ。
 ただ、この危機はすぐにそこに迫っているようには思えない。特に変化はないのだ。それは今すぐ身に及ぶ危機ではないだけだが。
 松下は左足をかばいながらレールの間を歩いた。枕木はいつの間にか木製になっている。まさに枕木だ。
 軌道は草むらの中を一直線に通っている。草原とはいえ、所々禿げており、土が露出している。それは結構凹凸がある。小石も転がっている。
 軌道には砂利が敷かれているが、かなり崩れている。
 松下は枕木と砂利を交互にまたぐのが面倒になり、軌道脇の草むらに戻ろうとしたとき、前方に何かが現れた。
「そろそろだと思っていた」
 何か、ここで出合いがあると松下は覚悟していた。五感を研ぎ澄ませていたのも、そのためだ。この変化を待っていたのだ。出るべきものが出ると信じていたからだ。しかし、それと出合うのが怖かった。
 前方の人影は、コツンコツンと砂利と枕木を踏みしめながら近付いてきた。歩きにくくないのかと心配するほどの年寄りだ。杖をついており、しかも着物だ。頭が完全に禿げており、長細い。
「ここで何をしておるか」
 この最初の言葉に、松下は意味を知ろうとした。相手は自分のことを知らないらしい。そして、松下も、この着流しの老人を知らない。
 これだけでもすごい情報だ。
「あっちの人間のようじゃが、こっちには入れんはず」
「ここは……」
 本当は聞きたくない。だが、一番知りたいことだ。
「儂は巡回員でな」
 老人は聞いていないことを話した。自己紹介だろうか。
「まあ、見回り役だ」
「あのう、レールが」
「ああ、これか、何でこんなものがあるのか、儂も知らん。沸いて出たんだろう」
「敷いた人がいます。電鉄会社とか……」
「そんなことはどうでもいい。ここに来ちゃいかんがな」
「ああ、そうですか」
「このあたりの草むらは薄い場所でな。たまに何かが入り込みよるんじゃ。だから、こうして見回っとる」
「ここは黄泉ですか」
「黄泉とはあの世のことだぞ」
「はい。そうなんですね」
「ここは死後の世界かどうかは、儂には分からん」
「あのう、ご老人はどこから来られたのですか」
「儂はこの先の小屋から来た。ずっとそこにおる。たまにこうして見回る。結構広いぞ、ここは」
「では、この草原に小屋があるのですね」
「ああ、見張り小屋、番所と呼んでおる」
「僕はどうなるのです」
「こっちに用事か?」
「いえ、そんなものはありません。もうすぐ会社へ行くので」
「じゃ、用事はない。と」
「はい」
「それなら、簡単じゃ。面倒のない侵入者だわい」
「はい、面倒はかけません」
「では、戻してやる。いや、それをするのが儂の仕事なんでな。簡単なことだ」
「お願いします」
 老人は松下を草むらの中の禿げた場所に連れて行った。
 土が露出している場所だ。
「ここに立ちなされ」
「あ、その前に、質問が」
「早く済ませたいので簡潔にな」
「僕は交通事故に遭いましたか?」
「知らんがな」
 老人は邪魔くさそうに杖で地面に円を画く。
「はい、入って」
「何ですか、これは」
「円陣だ」
「エンジン?」
「魔法陣のようなものじゃ」
 松下は、ここの世界の一端に触れた。いや一端ではなく全貌かもしれない。魔法陣。魔法陣。魔法。魔法と、何度も言葉をかみしめた。
 松下は相撲の土俵のような円の中に入った。
「ワープポイントですね」
 老人は杖を頭の上でぐるぐる回しながら、円陣の周囲を歩き出した。
 一周、二周、三周と。
「これは、結構目が回るきつい作業なんじゃ」
 数分間、老人はその動作を繰り返した。
 松下に変化はない。円陣内にも、周囲にもない。老人の回るスピードが落ちている程度だ。
「まだか」
 老人が呟く。
「まだです」
「そろそろじゃ」
「頑張ってください」
「ああ」
 しかし、変化はない。
 老人はゼイゼイいい出した。
「大丈夫ですか、戻れないのですか」
 老人はついにしゃがみ込んでしまった。
「ちょいと休憩じゃ」
「ワープできないのですか」
「あ」
 老人は、奇声を上げ、その後、頭に手を当てた。
「呪文を忘れておった」
「お願いしますよ。大丈夫ですか」
「最近緩くなってのう。物忘れが多い」
 老人は念仏ともご詠歌ともつかないカタカナのような言葉をうなりだした。節はわかるが、日本語ではないようだ。
 
 松下が老人の最後の姿を見たのは四周目の中程だった。
 老人の姿は消え、草原も消えていた。
 その切り替えは一瞬だった。
 松下は駅舎の前にいた。
 改札には、誰も座っていない。
 松下は改札の向こうにあるプラットホームを見ている。新入社員として、通勤できることを確認するかのように。
 松下は帰り道、コンビニに寄り、牛乳を買った。予定通りの行動だ。
 興奮を冷やす散歩は成功したようだ。
 
   了


2012年5月4日

小説 川崎サイト