小説 川崎サイト

 

四谷のお岩

川崎ゆきお


「四谷のお岩ですが」
 玄関先で彼女はそう名乗った。
 妖怪博士は土間にある椅子を指さした。座れという意味だ。
 四谷怪談のお岩と違うところは日本髪ではなく、長い髪をだらりと垂らしている。和服ではなく、腕が二本ほど入りそうな袖のゆったりとした長いワンピースだ。草履ではなく、浅い靴を履いている。
 このお岩さんなら、町中を歩けるだろう。左目に眼帯をかけている。
 土間の椅子にお岩は座る。妖怪博士は廊下に座布団を敷き、尻だけをそこに乗せ、土間に足を置いている。縁側に座っているような感じだ。危ない客が多いので、訪問者は、ここで迎え入れている。
「お岩稲荷では成仏できません。納得できません。それで、こうしてさまよっています。でも、お岩稲荷に願を掛けた人には、祟るようなことはしません。しかし、毒薬を飲まされ、髪の毛が抜け、生え際が後退し、眼が腫れた状態を見ると、恨ましく思います」
「恨ましく思うのは、夫の田宮伊右衛門をか」
「いいえ、私を演じている役者さんや、それを作っている人たちです。監督やカメラマンに対してです。でもお岩稲荷に来て、安全祈願をされているので、約束を反故にできません」
「それは分かったが、どうしてここに」
「成仏したいのです」
「しかし私は妖怪博士で、心霊関係の専門ではない。それなら、お祓いしてもらうのがよろしいかと」
「何度もしてもらいました。しかし効きません。もう私は人間ではなく、幽霊でもなく、妖怪になってしまったのです。だから、あなたを訪ねて、ここに来ました。どうか私を成仏、いえ、仏になろうというのではありません。この世に出て来れないように、上げてください」
「上げる?」
「極楽でも地獄でもかまいません。上げられなければ、落としてください、地の底に。もう疲れました。何百年もこの世にとどまっているのですから。それに最近、四谷のお岩と名乗っても、知名度も落ち、それは誰だと聞かれたりします」
「そうですか」
「私はもう人の霊ではなく、妖怪変化になっております。妖怪退治は、あなたの専門でしょう。それで、自首しにきました。どうか退治を」
「ご自身では立ち去れないのですかな」
「はい。消えることができません。それがもう辛くて辛くて」
「だが、私は妖怪研究家で、術者ではない。だから、相談に乗れる程度です」
「では、どうすればいいのですか」
「この世への恨みはまだありますかな」
「いいえ、もうそんなものは忘れました」
「未練がなければ、姿を現す必要はない。なのに、こうして出てきておる。それが苦しいのですな」
「はい、江戸の昔から、明治大正、そして昭和までは、まだ恨み辛みはありました。しかし、平成のこの時代、もうどうでもよくなったのです」
 妖怪博士はお岩をじっと見ている。
「その眼帯は」
「腫れているものですから」
「それは災難でしたなあ」
「はい」
「それで、今のお住まいは」
「ありません。四谷周辺にはもう住めません」
「住むといっても、霊なのですから、衣食住の心配はないと思いますが」
「そうです。でも、この世に出てくるときは、それなりの服装をします」
「はい、了解いたしました」
「長い、霊生活、疲れ果てました」
「少し、話してもいいですかな」
「はい」
「お岩さんなどいなかったのです」
「はあ?」
「田宮伊右衛門に毒を盛られた女性など、実在しなかったということです」
「はあ……でも夫の指図で按摩の宅悦が、毒を」
「だから、お引き取りください」
「いえ、お岩様は有名な幽霊で」
「お気持ちは分かりますが、存在しない架空人物の霊は、根本的なところで間違っているのです」
「間違いでしたか」
「はい」
「それは、失礼しました」
「よく聞き分けられた。これで、あなたは成仏するでしょう」
 妖怪博士は玄関戸を指さした。お帰りくださいという意味だ。
 お岩は、立ち上がった。
 
   了


2012年5月20日

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