小説 川崎サイト

 

ぼんやり

川崎ゆきお


 ある境地がある。境地にもいろいろある。様々な心境がある。田村がその心境から一つの境地に達したことがある。心境より境地の方がレベルは高い。地に足が付くほど、そこに居着けるほど。心境は一瞬だ。
 田村のその境地とは他でもない。やや落ち着いたと言うことだ。そんなものは境地でも何でもないが、落ち着きを取り戻し、心が波立たず、湖が鏡のように見える状態だ。これは心の波紋と湖の波紋を引っかけただけのたとえだが、田村はたまにその境地に入ることがある。それは、ぼんやりしている継続時間が長いと言うことだ。
 田村は散歩中、いつもカメラをポケットに入れている。その境地は写した写真に出る。まさに心の鏡なのだが、具体的な鏡ではない。
 では、どう出るのだろうか。
 それは何でもない風景を写せるようになることだ。そのため、写せる枚数が多くなる。実はここがこの境地の問題点でもあるのだが、それは後に語る。
 頭の中が雑念で一杯の場合、写真を写すときも、その雑念系で写してしまう。雑念系とは、いろいろ思い浮かべながら、意味を見出しながら行動することだ。別に動かなくてもいいが、役立つことや有為なことを考えている。雑念と言うよりメインの思考だ。それが仕事のことや生活のことなどでもかまわない。どうでもいいようなことではないのがメインだが、それらを含めて雑念と呼んでいる。 例えば行動中はあまり考えない。行動前に考える。これを雑念と呼ぶと、やや語弊はあるが、いろいろ考えることがメインの行為を妨げることがある。思考するとは雑念も抱え込むということだ。アンチテーゼなどに思いを巡らせると、単に心配事だけが増えたりする。だから、メイン思考は大事だが、雑念が入り込むことも確かだ。
 だが、ぼんやりとしているとき、そこまで思いが巡らない。そのため、田村は簡単に写真が写せる。写した写真をどうするか、あとで見た場合楽しめるだろうか。記録するに値するだろうか、等々がしばしお休みする。すると、対象とダイレクトに対峙する感じになり、何となく写してしまえる。意識の関所が弱くなっているためだろう。すんなり通ってしまう。
 くどいようだが、それは単にぼんやりとしているだけのことなのだが、これが意外と気持ちがいい。縛り物から解放されたような自在さが味わえる。これを田村は境地と呼んでいる。
 ただ、これには弊害がある。問題点だ。それで次々と写していくうちにテンションが上がり、ぼんやりした頭がしっかりし出す。すると狙い撃ちを始め、作為的な写し方になってしまう。そのため、あの境地はなくなるのだ。
 人間、なかなかずっとぼんやりしてられるものではない。その心境のままだと危険なためだ。
 境地と言えば悟りの境地などを連想する。これが危険なのは、自分自身への突っ込みが消えるからだ。制御装置が壊れたような状態になる。
 田村のぼんやり撮影術は、作り出せるものではない。作為的にぼんやり出来ないためだろう。
 
   了


2012年6月30日

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