小説 川崎サイト

 

幻のラストスパート

川崎ゆきお


 あるマラソンランナーの話だ。彼は変わっている。
 実業団チームに所属する中堅選手だ。ベテランの部類に入るが、ただ年を取ってしまっただけだ。
 テレビなどで中継される大きな大会にも参加しているが、順位は中程だ。長年走っているが芽が出ない。その先はもうしれている。会社も彼を解雇したがっている。チームの一員としてリーダーシップを取るような選手ではない。もう限界の選手なのだ。
 実は彼は誰にも語っていないことがある。トレーナーにも言っていない。体の不調ではなく、その走り方にある。
 それは、隠していると言ってもいい。敢えて。
 とんでもない実力を隠し持っているわけではない。また、とんでもない欠点を持っているわけではない。
 その秘密とはラストスパートにある。そのスピードが非常に速いわけではない。隠しているのは、全力で走っていないことだ。そのため、走り終えた後でも余裕がある。ただ、秘密がばれるのを恐れ、疲れた振りはしている。
 もし全力で走れば、国内の大きな大会では十位以内には入れるだろう。しかしその上の順位には入れない。優勝や二位とかだ。それなら、引退する必要はない。だが、出し切っても十位前後だ。これだけでも十分このチームでは安泰だ。
 彼が考えているのは、優勝で。そのため、ラスト近くまで体力を温存している。
 そして、皮肉にも一度もラストスパートを見せたことはない。優勝争いまで取っておきたいからだ。そのため、追いつけないような距離では、もう全力で走らないのだ。
 ただ、引退が近い。このままでは解雇だ。
 だから、ラストスパートに力を残すのではなく、均して走ればいい。そうすれば十位には入れる。これは優勝のためではなく、解雇されないためにだ。
 彼のジレンマは、均して走っても十位前後で、それで一杯一杯なのだ。
 その走り方をすれば、解雇は逃れられるだろうが、いつも中程の選手が、急に上位に来たことを不思議がられる。伸び盛りの選手ではなく、下り坂の選手が急に早くなれば、不審がられるだろう。それはばれることにもなる。今までその力を隠していたことを。
 体力を使い切って走っても十位前後だというのが、彼の限界だ。 体力をかなり温存した状態で、優勝争いで競り合うのが彼のイメージなのだ。しかし、温存した状態では中程の順位で終わる。やはり底上げが必要なのだが、もはや下り坂で、その希望もない。
 しかし、引退間際の最後だけは、本当の力を見せたい。本当は国内の大きな大会でも十位には入れる実力者だったことを。
 彼が夢見たラスト近くでのごぼう抜きで、一気に優勝。これをしたかったのだが、今となっては叶わない。
 結局彼は最後になるであろう試合で、完全燃焼しないで、ラストスパート分の体力を温存したまま平凡な成績で終えてしまった。
 彼の実業団チームは、彼を解雇するより先に、チームそのものが消えてしまった。
 その後彼は、別の職に就くが、相変わらずラストスパート用温存を考えた働き方をしている。
 
   了


2012年9月6日

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