小説 川崎サイト

 

面白い遊び

川崎ゆきお


 面白いや、遊ぶなどの言葉を使うのを徳田は最近控えるようになった。その使われ方が真面目にやっている人に対して失礼ではないかということだ。別にその言葉を使ったからといって、謝り回るわけではない。
 面白さが面白く感じられないこともあり、遊びが遊びとは思えなくなっているためだ。これは量が増えたためだろう。
 面白いものが増え、遊びが増えたため、値打ちが下がったのだ。
 そして徳田は面白がっている人を見ると、不快感さえ覚えるようになってしまった。面白がれる余裕、遊べる余裕がなくなったのではない。
 悠々自適の生活をしている徳田は、遊んで暮らしている。少しでも面白がれるようなものがあると飛びつく。だから、面白がるのは好きであり、遊ぶのも好きなのだ。ということは自己嫌悪に陥っていることになる。
 面白がり疲れ、遊び疲れたのかもしれない。
 より巧妙な面白がり方、遊び方を探しているのだろう。それは一見して面白味のないこと、遊びの要素が入っていないように思えるものの中にある。
 面白がれないところで面白がる。遊べないところで、遊ぶ。ということだ。
 その場合、これはもう面白いことや遊び事ではなくなる。
 面白がっていることを隠し、遊んでいることを隠す。誰が見ても面白がっているようにも、遊んでいるようにも見えないよう態度。これが究極だ。
 徳田はそこまで考えたのだが、それなら、面白くもないことを、綿々粛々する事が、それに相当することに気付いた。そして、遊びを一切廃したことをやる。そうなると、普通のことを普通にしていることになる。普通の地味なことをやっていることになる。
 それは平凡なことをやることになる。そこに面白さや遊びを見出す。
 真面目な行為をやっているときほど、遊びが目立つ。遊びを廃したはずでも、遊びの部分がどこかに残る。そこまで完璧には遊びはつぶせないのだ。これは余裕ではない。
 線香花火のように瞬間的に終わる面白さでは継続性がない。
 面白さを実行するより、面白さについて考える方が面白い。それは勝手に面白がっているだけのことだが、本人にしか分からない。だから、他者にはばれない。
 真面目に働いているようには見えるが、実は内面では遊んでいる。これもばれない。
 面白味のない人、遊び心がない人と思われている人が、実は、それに関しての達人なのかもしれない。
 徳田はそこまで考えたとき、自分は遊び下手、面白さについて何も分かっていなかったのではないかと、ふと気付いた。
 あの平凡な隣人たちこそ、一番の面白さ、一番の遊びを実はやっているのではないかと。
 
   了


2012年9月14日

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