小説 川崎サイト

勧誘

川崎ゆきお


 気合いを入れ、目標に向かって一直線に走っているときには見えない世界がある。目標としている世界しか見えていないわけではないが、スピードが速いと、周辺の風景が風のように飛んでしまうためだ。
 高島はそれに気付いたのは、仕事が一段落したときだ。もう何十年も走り続け、やっと引き際を見つけた。もう休んでもいいのだ。
 そんなとき、魔が差す。
 魔は、形を取って近付いてくることがある。刺客のように。
 それは着流しの坊主で、かなり大柄だ。そんな大入道が街中を歩いているだけでも、これは魔なのだ。人型なので魔人だろうか。神なら魔人だが、人なら魔人だ。
 着流し坊主が高島に寄ってきた。駅の改札を出て、住宅地に入り込んだときだ。
「仕事に疲れているでしょ」
 魔人の突っ込みは的を得ていなかった。
「いえ、もう引退したので、仕事はしていませんが」
「その意味での仕事ではない」
 魔人はとっさに的外れをすり替えた。それは高島が定年退職までまだ間があるような年齢だったためだ。
「別の仕事って、何かな」
「色々なことをやる。そう言うことです。その色々な事々に疲れたのではありませんか」
 魔人の勧誘は、本職とは別にサイドビジネスを始めないかということだが、高島の場合、本職がもうなくなっている。
 仕事で忙しいときは、こういったややこしい人物が近付いて来ても無視していた。かまっている時間がないためだ。今、こうして魔人と接しているのは、そのタガが外れ、緩くなっているためだろう。
 着流し坊主の魔人は、どう見ても宗教関係の勧誘。霊感商法的な雰囲気がする。しかし、ここまで露骨な格好なのが少し分かりにくい。普通の人間のような格好で来るはずだ。そうでないと警戒されるからだ。
「日々に追われ、大事なことを忘れてしまう」
 しかし、高島は、暇なので、そんなものには追われていない。
「新しい世界を見るべきだ。ただ、それは日常の中にある。単に見逃しているだけ。この家のブロック塀を見よ。その上に鉢植えが置かれいる。これは危ない。下手をすると落ちる。それが分かった上で置いているのかもしれぬ。そう言うことが見えてくる」
「それが新しい世界なのですか」
「世に新しきものなどない」
「はい」
「見ても見ていないだけのことだよ」
 魔人は自分のペースに入れたので、声の色根も調子づく。
「一体なんですか」
「豊かな人生を送りたいとは思わないか」
 これを否定する人はほぼいないだろう。だから、この質問は、質問ではない。選択肢は一つしかないのだから。むろん、肯定だ」
「その豊かな人生を送るために、懸命に働いてきたのです」
「それで、今は豊かな」
「弟がゆたかという名前ですが」
 高島はフェイントを掛けた。というより、ぼけた。
「名は体を表すとは限らぬ」
 魔人は適当に言葉を投げかけただけで、優れた返し技ではない。
「豊かさとは、心が決めるもの」
 常套句しか出てこないことで、魔人はやや焦った。
「では、急ぎますので」
 高島は、忙しくないのでゆとりが出てきたので、相手にしただけのことだ。
「あ、そう」
 坊主は詰まった。最初の狙いを外したので、何ともならないのだ。つまり、サイドビジネスへの誘いだったのだが、本職がないのなら、サイドもない。そして、そのビジネスは詐欺だ。熟年サラリーマン相手用のイントロを用意していたのだが、それが狂ったのだ。
 坊主は最初の麻酔注射に失敗した。
 高島は、帰路を急いだ。ついてこられると困るので、出来るだけ早足で。
 その早足は、忙しいときの足だった。要するに、そういうときは、ややこしい人間との接触はなかった。だから、意外と忙しいときの方が、安全なのかもしれない。
 
   了


2012年10月1日

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