小説 川崎サイト

 

妖怪博士の物の怪講座

川崎ゆきお


「万物に神や仏が宿るという発想があるからこそ、これが妖怪物の怪の土壌となっているものと思われます。妖怪より、物の怪の方が古いのではないか。ということもあります。それは万物の物と物の怪の物とを重ねて考えれば分かりやすいでしょう」
 妖怪博士は地方で講演していた。
「万物に神仏が宿るというのは、かなり原始的であります。ただ、この場合の神仏は、日本の神様仏様と言った類ではなかったように思われますまあ、自然崇拝でしょうなあ。そして文明の発達により、持ち物や家具なども増えます。家も建ちましょう。そうすると、自然物以外にも神仏が宿るわけになりますが、全ての物となると、それはやはり神仏の対象にはなりにくい物も出てきます。信仰の対象に不向きな道具や、人工物ですなあ。これらの扱いに困り、神仏と区別するため、物の怪として扱ったという説もあります」
 聞いている人は老人が多い。無料であり、しかも昼間なので、暇な人しか来ていないのだろう。
 妖怪博士は壇上から客席を見ながら話している。映画や芝居ではないので、会場は明るい。だから、来ている人、一人一人の顔がよく見える。
「物の怪の物とは、事柄の事柄のことかもしれません。物理的なものではなく、物事の、あのものですなあ。事柄に関する怪を、ひらがなで、もののけと書く場合もあります。漢字を使った方が賢く見えます。だから、最初は音ではないかと思うのですよ。話し言葉です。物は人のことでもあります。だから、ものほど万物性を言い表している言葉はないのです。その万物の怪とは何でしょう。自然や人、そして道具類などの物をも含めた怪です。また、物事をも含めた怪。怪やとは妖しいことと言ってもいいでしょう。そちらへ傾けば妖怪になります」
 老人たちの中には、いちいち頷いている人もいれば、表情を全く変えない人もいる。当然眠っている人も。
「妖怪や、物の怪は森羅万象に対する畏怖の念だという説もあります。私が研究している妖怪とは、おかしな姿をした珍獣だけを指すものではありません。人が外界、つまり、自分の内なる世界とは違う外の世界との接点に関しての不安感が、そういったものを発生させたのではないかということですなあ。これは原初的で、誰でも持ち合わせているところのアプリオリな、つまり、先天的に持っている感覚です」
 いつもはもっと若い人も来ているのだが、どうもこの日の講演は老人が多い。
 もし、ここに来ている人たちが、全て妖怪なら、釈迦に説法だろう。
「では、自販機にも神仏が宿るのでしょうか。おみくじの自販機のことを話しているのではありません。全ての物、事柄にも何かが宿っているという見方は、非常に原始的です。しかし、このレベルは安定しております。後一歩で、動物のレベルに踏み込めます。食べたり排泄したりするレベルですなあ。これは動物としての人間の営みです」
 妖怪博士は、客の反応がよければ、もう一歩踏み込んだ話をやろうとしたのだが、客が乗ってこない。
「だから、全ての物に何かが宿っておると思うのは自然なことだと私は思います」
 と、平凡なところで、終わろうとした。
「本当に来ておるのだろうか」
 妖怪博士は、ふと妙な気持ちになった。ここは会場で客席は確かに存在するのだが、これは写真ではないかと。客席を写した動画相手に講演しているのではないかと。
「妖怪博士による物の怪講座はこれで終了します」
 と、アナウンスされた。
 すると、来場者は立ち上がりだした。
 妖怪博士は、ほっとした。
 
   了

 


2012年11月1日

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