小説 川崎サイト

 

日だまりの幸せ

川崎ゆきお


 晩秋の日だまり。風はなく暑くも寒くもない。温度を感じない。
 柔らかな陽射しが風景をソフトに映し出す。いつも揺れている柳の枝も、今日は静かだ。まるで静止画のように。
 排水溝に大きな鯉が泳いでいる。それをじっと見るのも久しぶりだ。
 刈り取りの終わった田んぼに、まだ案山子が立っている。それも穏やかな人のように見えてしまう。
 田代は、ああ、これは文学になってしまうと、その気持ちを抑えた。何がそうなのかは分からないが、何となく幸せな感じがする。特に何かがあったわけではなく、そういう風景の中にいることが平和で穏やかな気にさせるのだ。
 と、言うようなことを友人の玉垣に話すと「暇なのでそんなグータラなことが言えるんだよ」と返って来た。だから話すのではなかったと後悔するが、こういう繊細さが玉垣にはないのではなく、実はありすぎるのだ。だから、それを玉垣は必要以上に嫌っているようだ。
 つまり玉垣は忙しく働き、田代は暇がある。ただ、本来は働かないといけないので、この暇は怠けているだけのことだ。
 田代は、このことを敢えて玉垣にぶつけたのだ。暇で仕事がない人間にもこんなメリットがあると。そして幸せな気分を体験できると。
 これを田代以上に怠けている友人には話さないだろう。その種の友人に受けるように話すにはネタが小さい。排水溝の鯉を捕まえて食べた程度のネタがいる。退屈しているはずなので、刺激が欲しいはずだ。
 どぶに落ちても根のある奴はいつかは蓮の花と咲く。何かの映画での主題歌だ。田代は根がないので、蓮のような綺麗な花を咲かせることは出来ない。だから、この歌には同調できない。
 しかし、一度日だまりの幸せを体験すると、これは何もしていないほど効果がある。忙しく働くほうがいいのだが、それでは日だまり効果が減る。
 ただ、日だまりの幸せは季節もので、夏はただ暑いだけだし、冬はさすがに寒いのでそれどころではない。
 しかし、冬は炬燵の中で過ごす暖かさがある。これは適度に外に出ないと、炬燵の暖かさを味わえない。
 やはり条件が揃わないと、なかなかいい感じにはならないものだ。そして、どのレベルにいても、それなりの味わい方があり、過ごし方がある。
 それらは得ようとしなくても、最初から入っているオプションなのだ。
 
   了
 


2012年11月14日

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