小説 川崎サイト

 

タワシの異界

川崎ゆきお


 日常からふっと異界へ入るようなことはないが、それに似たようなことはある。だが、それを異界などと大げさな区切りはしないが。
 室田はタワシを買いに行った。異界とタワシとの関係は何とでもなる。たとえば金物屋に買いに行ったとしよう。日用雑貨店だ、しかも商店街の外れにあるような古い木造モルタル塗りの店。これだけでもう異界に近づく。
 あと一押しは、既にその店は閉められていて、営業していない。室田は知らないで店の前に立つ。表戸が閉まっている。しかし、体を横にすれば入れるぐらいの隙間が空いている。
 これが異界への導入部だ。実際にはしっかりと表の雨戸は閉められている。その状態なら室田は引き返すだろう。廃業したのか休みなのかは分からないものの、閉まってる店の戸は叩かないし、また戸を無理に開けようともしない。それが日常生活というものだ。
 それにタワシだ。茶碗や鍋を洗うタワシだ。植物とげとげを束ねた束子ではなく、室戸はスポンジタワシを買おうとしていた。しかし、スポンジだけでは芯がないし、軟らかすぎるため、表面にネットをかぶせたタイプが所望なのだ。
 タワシについて語っている場合ではないが、どんなタワシであろうと、たかがタワシだ。タワシが摩耗し、またヌルヌルになり、それ以上使えなくなっても、指や布巾を使えば何とでもなる。今すぐタワシがなければ日常生活ができないわけではない。さほど支障を来さないのだ。
 だから、その金物屋の表戸をこじ開けるほどのことではない。
 しかし、とば口が開いていた。体を横にすれば入れる。個人商店なので、何とか買えるのではないかと思ったのだ。
 異界への入り口、とば口は、そう言うところにある。
 廃業した金物屋の表戸が少しだけ開いているというのは、あり得ないことではない。主人が用があって開けたのかもしれない。非常に細い人だろう。
 鍵は外側ではなく、内側にある。だから、中の人しか開けられない。店は二階建てで、二階部分は住居だろう。しかし、誰も住んでいない可能性もある。
 主人が生きていれば、単に廃業して、もう金物屋をやっていないだけだ。それでもそこに住んでいる。もう一つは主人が亡くなり、もう誰もいない。
 住居への入り口は裏にあり、商店街は長屋のように連なっている。だから、裏道から出入りすることになる。
 主人が亡くなっている場合でも家族がまだ住んでいるかもしれない。また空き家となっていても、縁者がたまに見に来ている可能性もある。
 では何故表戸が僅かばかり開いているのかだ。
 これは風通しのためかもしれない。
 室戸はその隙間から入ってみた。さすがに狭いので、少しだけ戸を引いて。
 暗いが店内は見える。棚しか見えない。綺麗に片付けてある。やはり廃業だろう。
 タワシを買いに来た室戸にとって、もう用はない場所だ。ここではタワシは得られない。だから、すぐに出るべきだ。
 しかし、店の奥にレジ台だけが残り、その後ろ側にドアがある。ここへ突っ込むと、日常から離れる。
 実はここまではまだ異界への入り口ではない。踊り場なのだ。
 そして、奥のドアを開けるかどうかで、日常からかなり外れる。逸脱すると言ってもいい。
 その先を異界と呼んでいいのかどうかは分からないが。
 
   了

 


2013年2月7日

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