小説 川崎サイト

 

仏像巡り

川崎ゆきお


 年寄り臭い話だが、最近は若い人も仏像巡りをしている人がいる。
 西田と高崎とではその流儀が違う。
 西田は仏像を見て、我が身を思うらしい。自身の内面にある仏性のようなものが起動し、それが自浄作用になるようだ。つまり、自分で自分を清めているようなもの、あるいは反省したり、カツを入れているようなもので、省みると言うことだろうか。
 一方高崎は他力、つまり、自分の力ではなく、仏像を拝むことで、仏さんの力で、何とかしてもらえると思っている。
 しかし、二人とも仏像だけを見ているわけではない。それが置かれている場所が大事だ。まあ、国宝級の仏像はぞんざいな場所にはないので、あとは知名度、ブランド力だけで有難味が出る。そのため、同じ国宝級の仏像でも野山にぽつんと置かれていると有難味はない。やはり大伽藍が必要で、しかも年に何度かしか開帳しない仏様の方が効果的だ。
 仏像と自分の仏心をリンクさせるタイプの西田の最近の好みは弥勒菩薩や阿弥陀如来ではなく、実在していた高僧の像だ。これは何かよく分からない。つまり、固有の人物だ。このタイプに行基さんがいる。弘法大師空海もそうだ。それらは仏像と言えるかどうかは分からない。聖徳太子もそうだ。
 西田がよりリンクしやすいのは、人に近い顔かたちで、人間的な表情をより具体的に表している像だ。
 西田はそれでリンクしやすいのでいいのだが、高崎はあまり有り難がらない。拝んでも、あまり効かないと思うからだ。
 そこに花村という老人が加わって、最近は三人で仏像巡りをしている。
 この花村は仏像を美術品として見ている。だから、材質は何かとか、表面の仕上げは何か、など、その辺りばかり見ている。デッサンが狂っているとか、肩が力みすぎているとか、猫背だとか。
 ただ、背の高い仏像や、大仏は、下から人が見たときの角度を考慮している。それは分かっているのだが、横から見ると、相当の猫背だ。
 さて、西田も高崎もかなりの仏像に接しているが、特に御利益はない。西田の場合は、自身を浄化することで、仏心が最近強く出るようになったが、高い品物と分かっていても、値切らないで買うようになっている。逆に損をしている。その代わり、あまりトラブルはない。まあそれは本人が我慢しているだけのことだが。
 他力本願の高崎も、特にうまい話が来たり、運が開けたと言うこともない。
 三人は連れだって、国宝クラスの仏像を見に行くのだが、最近の楽しみは飲食だ。有名寺院は観光地でもあるので、寺近くのお食事処で、結構贅沢なものを食べている。ものはそれほどよくはないのに、観光料金で結構高い。だが、高いと美味しく感じてしまう。
 百円もあれば出来そうな湯豆腐が千円ほどする。これが町の飲食街でなら食べないだろう。それに有難味がない。
 だが寺の前のお食事処は、まだ線香の匂いが届きそうな距離だけに、蚊ではないが、その煙に麻痺したかのようになる。
 なんやかんやと言いながら、この三人は交通費や参拝のための木戸銭を払い、そしてお食事処や土産物屋で散財して帰る。
 仏を出汁にして、遊んでいるようなものだが、寺社参りを止めるとバチが当たるということで、これらは担保されている。
 
   了

 


2013年2月18日

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