小説 川崎サイト

 

俄に雨

川崎ゆきお


 雨が降ってきた。それもかなり強い。
 自転車に乗っていた高橋は雨宿りをすることにした。一刻も早く濡れない場所に入ることが必要だ。
 すぐそこに門がある。屋根付きだ。そこが一番近い。
 屋根付きの門のある家なので、これは屋敷と言ってもいい。その下に自転車を入れたのだが、雨がまだかかる。
 それで屋根の真下。つまり敷居こそないが、境界のような所まで移動した。門を閉めれば内と外に別れる。その境目で高橋は雨宿りとなる。
 それは俄雨ではなく、しばらくは止まない普通の雨のようだ。そういえば家を出るときから曇っていた。空が暗かった。これは雨が近いことを知らせてくれていたので、俄に降りだし、俄に止むような雨ではないことを知っていたはず。つまり、高橋の準備不足なのだ。
 高橋は町の本屋へ行く最中だった。特にネタはない。本を買うかもしれないし、買わないかもしれない。本屋へ行けば、何か目新しいネタが見つかるのではないかと考えた。
 はっきりとしない行動。目的があるようでない。そういう曖昧なときは、行動も曖昧になる。メインがしっかりしていないためだ。
 目的のために、その周囲や順番を固めていく。そういうことがない。だから、雨が降りそうな空なのに、注意を怠ったのだ。
 まあ、雨に遭う程度のことですむ話で、濡れたら濡れたでいいのだろう。気合いを入れるような話ではない。
 雨は真っ直ぐ降りてこないで、やや角度がある。門の外側から、つまり通り側から吹き込んでくるので、真ん中より、屋敷側のほうに移動した方が防ぎやすい。
 しかし、それでは完全に屋敷内に体を入れてしまうことになる。
 そして相変わらず雨脚は強く、弱まる気配はない。
 屋敷を背に、高橋を通りを見ている。傘を差している人も、結構濡れているはずだ。傘だけでは下半身はカバー出来ないはず。
 高橋はずっとそれを見ていたのだが、背中が気になる。視線だ。だから、それを見ないように、背中を向けている。
 だが、気になる。背中がむずむずする。痒いときはかくべきだ。それと同じように振り返った。
 母屋まで飛び石が続いている。左右に植え込みがあり、よく手入れされている。大きな丸いボールが並んでいるような植え込みの隙間から母屋の縁側が見える。ガラス戸の内側だ。廊下のように広い。そして座敷との仕切りは障子だ。
 高橋は泥棒ではない。だが、こういった屋敷が気になる。馴染みがないだけに、新鮮なのだ。こういう所に暮らしている人は、どんな暮らしぶりなのかが気になる。
 他に気にすることがない。本屋へ行くのが目的なのだが、大した用事ではない。別に行かなくてもかまわない。
 既に屋敷内に一歩ほど入っている。これは雨を避けるためなので、理由がある。説明出来る。
 飛び石の先に玄関口がある。そこまでは入れるのではないかと、勝手なことを考えた。セールスマンなら、そこまで行けるのではないか。
 しかし、高橋は営業で回っているわけではない。ただの見学なのだ。もう少し深く見学したいだけのことだ。
 この「だけ」は正当ではない。理由にはならない。だから「だけ」だけで引っ張るのは強引な話だと言える。
 雨脚は相変わらず強い。玄関口まで行くにしても濡れるだろう。雨宿りに来て、濡れるというのはおかしな話だ。どうせもう少し濡れているのだ。あそこまで行ってもそれほど変わらない。走ればいいのだ。
 高橋は一気に駆けた。普段から自転車ばかり乗っているので、滅多に走ったことはない。そのため、思ったよりもスピードは出なかったが、本人して見ればワープしたような瞬間移動に近い。よく濡れた飛び石の上で滑らなかったものだ。そういう考慮を最初からしていなかったので、不安もなかったのだろう。
 高橋は玄関前に立つ。ここは庇があるので濡れない。振り返ると門と自転車が見える。さほどの距離ではない。
 冒険はここまでで、家人に見つかる前に戻ろうとしたが、このスリル感に好感を得た。気持ちがいいのだ。五感がしっかり機能し、体や心に張りが出た。
 ここから先は図に乗るということになる。つまり調子づいた。それが格子ガラス戸を開けるアクションとなって出た。半分は試しだった。開くとは思っていなかったのだ。
 ガラガラ、と戸が滑った。
 敷地内ではなく、母屋への侵入は偶然性は全くない。
「ごめんください」
 さすがに無断では入れないので、声を掛けた。開けてしまった言い訳のようなものだろうか。空き巣ではなく、セールスマンのように振る舞い、その場を去ろうとした。
 しかし、反応がない。インターフォンのようなものもない。門にあったのかもしれないが。
 家のメンテナンス。
 このセールスネタに決めて、待っていたのだが、誰も出てこない。
 ここで断られて、退場するという段取りが少し狂った。
「ごめんくださーい」もう一度呼ぶが、全く反応がない。留守なら門を開けたまま出ないだろう。
 高橋はこの屋敷前を何度か通ったことがある。いつも門は閉まっていたように思う。少なくても、常に開いている状態ではない。曖昧な記憶だが、開いていれば通りかかったとき、そっと見るはずだ。
 しかし、そんな推測よりも、そっと中に入りたいという気持ちが優先的に動いた。これも何となくだ。何気なく、そして自然に。まるで猫が入り込むように。
 靴脱ぎは意外と狭く、すぐに廊下に出る。よく見ると、廊下ではなく二畳ほどの板の間だ。その奥と右側に廊下が続いている。奥は庭に面した廊下だろう。右側は台所にでも出るのだろうか。
 高橋は右側へ進んだ。そしてもう「ごめんください」は言えない状態になった。既に上がり込んでいるのだから。
 見当通り風呂場や台所が続いている。そして突き当たりに階段。そこへ行くまで、左側に何部屋かあり、物置のような板戸もあった。
 建物がくたびれているのか、廊下を歩いているとミシミシ音がする。誰かいるのなら、この音で気付くはずだ。
 高橋は、襖を開けてみた。きっと座敷だろうと思いながら。
 結構奥の間なのだが明るい。庭側の部屋との仕切りの襖が開いているためだろう。
 その部屋は仏間らしい。さすがに立てかけてある写真を見るのが怖いので、見ないようにして、次の間に出る。
 庭に面した大きな部屋に出る。
 誰もいない。
 高橋は自分は誰だろうかと、自問した。もし家人に見つかったとき、説明出来ない。一番それにふさわしいのは空き巣だ。こそ泥だ。だから、見つかれば逃げればいいのだ。
 魔が差すとはこのことだろう。しかし、それがどこで差したのかが分からない。シームレスに来ている。
 このまま戻れば無事に本屋へ行けるだろう。止めるなら今だ。
 庭もよく手入れされている。小さな草花が咲いている。家人が植え育てたのだろう。しかし、まだ雨脚は強い。
 戻ろうとしたが、二階が気になった。
 高橋としては屋敷内見学なのだ。他意はない。
 それよりも、住んでいる人の生活感がない。まるで旅館のように。
 この一階は襖を全て取り払えば大広間になる。何かで使うためだろうか。だから、家具類がない。仏間に仏壇があるだけ。
 つまり、誰も使っていないのかもしれない。
 これで、いよいよ二階が気になった。
 急勾配の階段をぎしぎしいわせながら高橋は上がった。
 廊下の左右に部屋がある。二階は一階よりも狭いようだ。左右四つほどの部屋だろう。
 襖や板戸、そしてガラス戸などが並んでいる。ここが旅館の客室とは違う。
 高橋は梅の花がちりばめられた襖を開けた。旅館なら梅の間だろうか。
「あ」
 六畳ほどだろう。その横に四畳半が見えている。そこに布団。
 六畳からそっと四畳半の部屋を見る。
 人が布団を被って寐ている。
 横向けになっているらしく、後頭部しか見えない。白髪だ。
 高橋はそっと近付く。
 寐ているだけだろう。
 高橋はそれを見ているだけだが、決して「だけ」ではない。ここまで上がり込んでいるのだから。
 タンスがある。机もある。結構散らかっている。
 六畳に戻ると、そこにはストーブや本棚や小さなテーブルがあり、魔法瓶や鍋や茶碗もある。醤油やソースの小瓶もある。壁にはシャツやブレザーやジャンパーがぶら下がっている。
 これが家人だろう。そして、この人が住んでいる家なのだ。
「では」と、一言発し、高橋は階段を降りた。靴下のため、何度かするっと行くところだったが、何とか耐えた。
 この「では」は、「では、失礼します」という挨拶だった。
 玄関から出た高橋は濡れながら飛び石を走る。そして、自転車で、無事脱出した。
 雨はまだ降っている。少し走っただけで、もうずぶ濡れだ。
 本屋まで一気に走る。
 結局、雨宿りにはならなかった。
 
   了

 

 


2013年2月20日

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