小説 川崎サイト

 

仙境

川崎ゆきお


 仙境で遊ぶ。それはなかなか出来るものではない。この世は欲得の世界。うっかりしていると持って行かれてしまう。何も持っていない人でも、時間を持って行かれる。気が付けば人のために働いていたことになる。それは人様のお役に立つためなら善いのだが、人の私欲に奉仕しているだけのこともある。上手く操られ、使われている。使役だ。
 それらは損得で考えるとそうなる。それに気付かない方が仕合わせだ。しかし、生きている限り、そういったことに関わるのは仕方のないことだろう。損して得取れという上手い言い方があるが、その反対の言い回しもある。実際には損して損取れだろうか。得することも結構ある人なら、たまには負けてもいい。損も多少は許せる。取り戻せるのだから。しかし、損ばかりしている方が平和なこともある。
 損得にこだわらなければ楽になる。損と引き替えに楽を得られるとすれば、大いに損することで、大いに楽できるはずだが、損するにも元手がいる。資産だ。これは労力の提供でもいい。ただ、そこで働いた分は無償なので、報酬を得られる労働時間が減る。まあ、隠居さんなら出来るかもしれないが、隠居働きは体に応える。
 しかし人情として、損得、欲得に関わることには懸命になる。金銭勘定だけではなく、成功、失敗にこだわる。ここにきっと旨味があるのだろう。この価値観は世間一般でも通じる。
 仙境で遊ぶというのはフィクションで、そんな場所がないのだから、遊びようがない。仙境の意味にもよるが、それは一種の心境だとすれば、呑気な人だろう。しかし、なかなか人は呑気や、長閑には過ごせない。
 ただ、仙境と見立てることは可能だ。何が仙境なのかは個々の事情にもよる。そして仙境の風景も違ってくる。
 仙境を想像した人は、きっと現実の何かから取り出したに違いない。ある瞬間の場とか、あるシーンなどだ。
 その場合、人がゴチャゴチャいるような場所ではなく、深山幽谷だろうか。人があまり手を加えていない場所。人がいないと欲得が発生しないだろうから、そういう計算をしなくて済む。
 しかし、そんな場所に長くいると寂しくなるだろう。結局人恋しくなり、里へと下りる。里が恋しくなるのだ。欲得合戦の場にいるほうが、今度は落ち着いたりする。
 しかし、年を取ると、ぼけてきて仙境が近くなる人もいる。下手にしっかりしているより、いいのかもしれない。
 欲得の巷で暮らし、たまに仙境を瞬間的に見る程度がちょうどかもしれない。心持ち程度の努力で、仙境のお隣程度に行けるのなら、それで十分だ。
 欲を出して、仙境に入ることはない。
 
   了




2013年5月9日

小説 川崎サイト