小説 川崎サイト

 

カメラバッグ

川崎ゆきお


 小林は鞄の中にカメラを入れようとした。出かけるとき、必ずカメラを持ち歩いている。だから、いつものことなのだが、鞄のファスナーを開けようとしたとき、急に鞄を思い出した。この鞄ではなく別の鞄だ。
 それはもう三十年ほど前にもなる。そのときの鞄だ。ただ、鞄を思い出す前に「エミツのバッグ」という言葉を先に思い出した。そのため、鞄を思い出したのではなく、言葉を思い出したのだ。
 エミツは、カメラバッグなどを売っている写真用品メーカー。小林が思い出したのは三十年前のエミツで、鞄もその当時のものだ。
 そのカメラバッグを買ったわけではない。だから、使ったこともない。しかし、買いたかったのは確かだ。
 エミツのそのカメラバッグはスナップ写真撮影用バッグと言えるほど小さく、薄い。真四角で端にファスナーとショルダーが付き、ぶら下げると弓形になり、身体にジャストフィットする。それだけのものだ。軟らかそうな裏革で色が付いている。ショルダーも革製で一体感がある。薄い鞄なので、何も入らない。カメラバッグとしては小さすぎる。
 それで小林は買わなかったのだが、一年か二年ほどは気にしていた。買う機会があれば買うかもしれないと。だから、都合三年ほどはまだ買う気でいたのだ。
 その鞄はカタログで見た。各メーカーのカメラ用品を集めたカタログで、展示場で貰えた。結構分厚い。三脚や引き延ばし機なども載っている。
 小林は、この写真用品カタログを見るのが好きだった。写真を写すときの便利な小物やアイデア商品は見ているだけでも楽しい。その中でもカメラバッグを見るのが一番好きだった。ほとんどのカメラバッグメーカーの鞄が載っているのだ。その中で、エミツのバッグが気に入った。カメラバッグらしくないのがよかった。これなら普通の鞄として持ち歩ける。ただ、少し小さい。それに薄いのでいくらも入らない。
 当時小林は勤めており、ビジネスバッグを持ち歩いていた。平社員なので、あまり立派な鞄ではおかしい。当然、エミツのカメラバッグはカジュアルすぎて駄目だ。それで、結局は買えなかった。
 当時はトランク型のカメラバッグを持っており、そこにカメラやレンズを詰め込んで、休みの日に写しに行った。だから、小さなカメラバッグは買えなかったのだろう。
 それから三十年。もうビジネスバッグを持つ必要もなく、また、トランク型のカメラバッグも必要ではなくなった。
 そして、その日、出掛けようとしたとき、なぜかあのエミツのカメラバッグが来たのだ。当時それほど気になっていたのだろう。大きなカメラ屋で実物も見た。欲しいと思ったが、買えなかった。高い品ではない。使えないためだ。
 三十年前の思いがなぜ、今飛び出したのかは分からない。あのスマートで、シンプルで、柔軟で、軽快なエミツのカメラバッグ。スナップ写真を写すための鞄。あの気楽さが欲しかったのかもしれない。
 小林は買うなら今だと思った。別にエミツの鞄でなくてもいい。似たようなものがあるはず。ただし、それはカメラ屋で買う。それだけが条件だ。
 これは、なくしたものを取り戻す行為である……と小林は勝手に物語を作った。
 
   了




2013年10月18日

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