小説 川崎サイト

 

アンパン

川崎ゆきお


「最近、都心部へ出ましたか」
「もう何か月も出てませんなあ」
 退職後しばらく経つ一人暮らしの隠居さん二人の会話だ。こういう話は怠いだけで、あまり有益なことは語られていない。ただ、二人にとっては貴重なコミュニケーションなのだ。つまり、人と話す貴重な時間だと言える。
 二人ともペットを飼っていない。犬や猫と話す機会もない。残るは物だろうか。
「昔はよく出かけましたよ。都心に限らず、いろいろな町をね。しかし、今はさっぱりだ」
「たまには出ないと」
「まあ、そうなんだが、きりがないからね」
「そんなに行くところが多いのですかな」
「都心部と言っても駅前周辺だけでしょ」
「いや、僕なんてターミナルビルにある百貨店から一歩も出なかったりしますよ」
「私の場合はねえ、いつもよく行っていた場所はそこだけじゃないから、ターミナル駅に出ても、それだけじゃ物足りない。そこから乗り換えて行った町が沢山ありましてねえ。そっちへも寄りたい。だから、逆にストレスですよ」
「いやいや都心に出ただけでも十分ですよ」
「まあ、昔のように用事がないからねえ。都心部に出ても、特にやることがない」
「でも、街の様子はかなり変わってますよ。下手をすると迷子になる。たまには行って、見ておかないとね」
「変化ねえ。そうだねえ。どうなっているのかも興味深いんだけど、テレビでたまにやってるからねえ。それを見ていると変化も分かる」
「テレビと現実はまた違うんですよ。やはり実際に出て垣間見ることで分かることが多いんですから」
「まあ、それもそうなんだが、そんな見学だけをやっている人が他にいるかねえ」
「いますよ。僕も見学でうろうろしましたよ。新しいビルとか、ショッピングモールとか。特に百貨店の新装開店は人が多くてねえ。アンパンを買って帰っただけですが、このアンパン、行列が出来てましたよ。知らなかったんですが名物なんです。何かで評判になったんでしょうねえ。僕は偶然そのときアンパンが食べたくなって買おうとしたんですよ。わざわざ百貨店でアンパンなんて買わなくても、近くのコンビニでも売ってます。それはまあそうなんだけど、なぜかそのときアンパンが欲しくなった。これはねえ、すぐに食べたいんじゃなく、アンパンを買って帰ろうと思ったわけです。自分自身への土産でね。でも、アンパンなんてどうして土産になるんだろと、不思議な気がしますが」
「アンパンねえ」
「つまらん話ですが、大都会の華やかなところでアンパンを買いたくなる心理でもあるんでしょうかね」
「ないと思いますがねえ。きっとアンパンの匂いがしたんでしょう。アンの匂いが」
「手作りのアンパンで、実演していました。きっとそうでしょう、匂いでしょうなあ」
「それで、都心部まで出てアンパンだけを買ってきたのですかな」
「そうです。行く前はアンパンなんて頭にありません。たまに都心部へ、というだけのことで出掛けたのですから、往復すれば、それで目的を果たしたようなものです。だから、アンパンはおまけなんだ。そしてアンパンのことなど予測していなかった。これはハプニングと言うほどのことじゃないけど」
「うーん、興味深いですなあ」
「そうでしょ、だからあなたもたまには出られるといい。何も用事などなくてもいいんですから、行けば行ったで何かある。何もないときもありますがね、しかし、電車が混んでいたとか、何なりとあるんですよ。大したことじゃないけどね」
「そうか、そういう出方もあるんだ」
「出てみること、動いてみることですよ」
「そうだねえ、私もそういう冒険をしてみようか」
「ははは、冒険とは大げさな」
「いやいや、そういうことで出掛けたことはないから、方針を変えるという意味での冒険なんだ」
「ああ、なるほどねえ」
 このあと、帰りの電車を待つホームを間違えたりの話が続くのだが、怠くなるので、ここまでだろう。
 
   了


2013年11月15日

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