小説 川崎サイト

 

寝正月

川崎ゆきお


「正月三が日はどうされていました」
「寝正月ですよ。大晦日に風邪を引きましてねえ。夜からきつくなりましたよ。それまでぴんぴんしていたのにね。一人暮らしなので、別に正月の用意などしなくてもいいんですが、師走の町をうろうろしたのがいけなかったようです」
「大晦日なので、かなり押し迫ってますよ。もう来年はお隣さんです」
「餅や干し柿や年越し蕎麦なんかを買いに行きました。自転車で行ける距離に市場がありましてねえ。今はそう呼ばないで商店街と呼んでます。横文字の妙な名前が付いてますが、私には覚えられません」
「英語ですか。アルファベットで書かれているのですか」
「カタナカですがね。何度覚えても覚えられない。まあ、昔の市場ですよ。日の出市場と昔は呼んでいました。そこへはもう最近行く機会がなかったのです」
「なぜ、そこへ」
「思い出しましてねえ。昔はそこへ正月の買い出しに行ってたことを。子供時代の話ですよ。母親の買い物に付いて行っただけです。竹で編んだような市場籠を持ってね。大人になってからは、ただの通路ですよ。雨の日はアーケードがあるので、丁度いい程度で。それに近所に大きなスーパーが出来てますから、そちらで買うほうが早い。ところが、大晦日の日、急に思い出しましてね。それで、先ほど言った品々を買いに出掛けたのですよ。この市場は個人商店の集まりでして、大晦日も開いているのですが、早く閉まるんですよ。それで急いで出掛けました。もう夕方近くですから。ここで急ぎすぎたのかもしれません」
「間に合いましたか」
「向かい風が強くて、ペダルが重かったです。悪い風にずっと吹かれていたようなものですよ。力んだおかげで間に合いました。まだ余裕がありましたよ」
「それはよかったですねえ」
「不思議と人が多い。何せ自転車に乗ったまま買い物が出来るんですからねえ。先ずは八百屋で菊菜を買いました。これ一つだけです。テンポがいいです、八百屋は。慣れている。私が指差しただけで、サッとビニール袋に入れてくれる。お金を渡すと釣り銭も持ってきてくれる。こりゃ楽だ」
「はい」
「餅は海老の入った赤いやつが好きでしてねえ。これも自転車に乗ったまま買えた。それとウル餅です」
「ウル餅?」
「餅米と普通の米が混ざっているんです。だから、ご飯粒が少し見えている。粘りがそれほどきつくない。これが好きなんです。餅屋は餅屋ですなあ。やはり本物の餅屋でないと、こういうのは手に入らない。指で押すとまだ柔らかい」
「自転車の上からですか」
「それで、足が引きつりましたよ。背中の筋も少し痛かったです。今思うと、このとき節々が痛くなる風邪症状だったのでしょうねえ」
「はい」
「あとは、まあ適当に買いました。自転車の前籠はもう一杯なので、ハンドルにレジ袋をぶら下げました。こういう動作をしたかったのでしょうねえ。いかにも正月用の買い出しに来ている気分になれました。買い物を済ませ、市場の端へ向かって走りました。人が多いので、押して行けばいいのですが、ゆっくりなら乗ったまま行けるのです。その方が楽なんです、押すより。それで、入った所とは反対側へ向かいました。こちらは市場の奥でしてねえ。さすがにシャッターが閉まってます。布団屋の看板とか、本屋の看板とか、テーラーとか、残骸のような。まるで洞窟ですよ。地下に埋まったような。明かりはあるのですが、店明かりじゃないので、薄暗いです。その先に明かりがある。夕日です。出口が近い。私は妙な気分になってきました。あの出口から出ると、異界に入るのではないかとね。まあ、それはこのときから風邪の症状が出ていたんでしょうねえ。頭がフワッとしていました。頭のピントがぼんやりです。視界はしっかり見えているんですがね。そして出ました。抜けられました。夕日の町並みが見えます。たまにしか来ていない場所ですが、異界じゃない。よかったです」
「それで、帰ってから風邪で寝込まれたのですね」
「そうです。だから、市場で移されたものじゃないようです」
「それで、寝正月だったのですね」
「まあ、雑煮は食べましたよ。幸い熱はなかったので、食欲はほどほどにありましたからね。餅を喉に詰めては大変と、溶けるほど煮込みましたよ。出汁が粘っこい粘っこい。どろどろの出汁になりました。餅を口に入れたとき、ここで喉を詰まらせると笑い事じゃなくなる」
「それで、風邪はもういいのですか」
「一週間ほどかかりましたねえ」
「それは、なりよりです」
「寝正月と言いながらも、実際には起きてました。不思議と一定時間以上眠れないものです。だから、起きながらの寝正月です。炬燵に入りテレビを見たり、本を読んだり、何もしないで、ぼんやりとしていましたよ」
「安静ですねえ」
「しかし、よく考えると、いつも通りですよ」
「はあ?」
「だから、炬燵でゆっくりするのは、ずっとやっていることです。だから私は年中安静にしていることになりますかな」
「ああ、そうですか」
「次は初詣です。正月三が日、一歩も外に出なかったのでね」
「もう明けてしばらく経ちますが」
「すいていて、幸いです。神社が」
「はい」
 
   了



2014年1月5日

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