小説 川崎サイト

 

マスターの間違い

川崎ゆきお


「間違いは誰にでもあるが……」
 喫茶店のマスターが語り出した。聞いているのは常連客だ。
 マスターはほぼ一人で店をやっている。昔は客も多かったので、手伝いを雇っていたが、この十年ほどは一人でさばける程度に減っている。一見さんが来なくなったからだ。
「マスターほどのベテランでも間違えることがあるのですか」毎朝出勤前にモーニングセットを食べに来ている青年が言う。この青年、もう中年近い年なのだが、マスターから見れば青年なのだ。そのためか、近頃の青年は、というとき、この客もぎりぎり青年に入っている。
「珈琲を出し間違えたよ」
「そうなんですか。それはよくあることじゃないのですか」
「いや、よくある間違いじゃない。二人の客が前後して入って来た。どちらも知っている人だがね、先に来た人はアイス珈琲しか注文しない客なので、聞く必要はない。次の一人は冬場はホット、夏場はアイスだが、冬場でもアイスの時もある。だから、一応毎回聞いている。しかし、冬場にアイスは、この客の場合トイチだ」
「トイチって、何です。利息ですか」
「十日に一度の割合だよ」
「ああなるほど」
「これは昨日のことなんだ。あなたが出てからしばらくして来る第二波の常連客でね」
「その時間、会社ですから」
「そうだね、顔を合わすことはないけど、まあ、同じうちの常連さんだよ」
「はい」
「その二人、同じ場所に座ることが多いんだよ。角の席でね。先に来た客が先に着く、どちらが先かはその日によって違うんだ」
「かち合うこともあるんでしょ」
「いやいや、一緒に入って来なければそんなことはない。席は他にも空いているのにね、やはりお気に入りの席があるんだろうねえ。そこでないと落ち着かないような」
「そうですねえ、僕もカウンターのこの席じゃないと落ち着きませんよ」
「この時間帯、ここは固定ですよ。あなたの座席指定席です」
 他の常連客はテーブル席にいる。この時間、カウンター席にいるのはこの青年だけだ。
「それで、どう間違えたのですか」
「その二人ねえ。風貌が似ているのですよ。先に来た人はアイスしか飲まない人なので、アイスを作り、出した。そこへ二人目が来た。当然お気に入りの席が空いていないので横のテーブルに着いた。そして、注文を聞くとホットだった。昨日は寒かったからねえ。この冬一番の冷え込みだったらしい。だから聞かなくても分かるんだが、やはりホットだった。こんなときアイスだとトイチが狂うよね。どうみてもアイスだよ。十に一じゃなく、千に一の確立だよ」
「はい」
「それで、先の客のアイスを作り、二番目のホットの客に運んでしまったんだ」
「はあ」
「なぜこんな勘違いが起こったのだろうねえ」
「それでどうなりました」
「アイスをテーブルに置く直前に、気付いたよ」
「それは、うっかりでしたねえ」
「すぐに、いつものアイスの客に運んだが、皆から笑われたよ」
「まあ、そういう間違いは可笑しいですからねえ」
「私も笑いましたよ。照れ笑いですがね」
「そんなこと、普通によくあることじゃないのですか、マスター」
「注文を聞いて、それを忘れて、作らなかったことは結構あるけど」
「それは、本当に忘れて?」
「それはない。何か他のことで手順が違ったとき、たまにある。百に一度かね」
「ヒャクイチですねえ」
「ない事はないが、それなりにある程度だよ」
「じゃ、出し間違えたのは、その前に何か手順が狂うようなことがあったとか」
「なかった」
「じゃ、もうそろそろお年ですから」
「そうだね。客もそう思っているよ」
「平和な間違いですよ」
「平和かい」
「はい。僕なんか、しょっちゅうミスや間違いをやらかしてますよ」
「私は完璧を期していたんだけどねえ。もう駄目だなあ」
「よくあることですよ。マスター」
「ぼけてきてるんだ」
「いいんじゃないですか。まだそのお年で店の切り盛りをやってるんですから」
「そうだね」
「多少間違っても」
「よくある間違いならいいんだけどね」
 その後、このマスターは、その種の間違いが急速に増えたと言うことはなかったようだ。
 
   了

 


2014年1月16日

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