小説 川崎サイト

 

雨と傘と散歩

川崎ゆきお



 雨が降っている。春の雨だろう。暖かい。静岡は傘も差さずに歩いている。小雨なので濡れても大したことはなく、それにまだ真冬の上着を着ている。防寒だけではなく防水性もある。多少の雨なら弾き返す。ズボンも耐水性がある。染み込まず、流れる。
 しかしこれは僅かな距離に限ってだ。静岡はその距離が分からない。何処まで歩くのかを決めていないからだ。
 片手に傘を持っている。降りがきつくなればいつでも差せる。このタイミングを見計らっていたのだが、まだまだいけそうだ。しかし距離が長くなると水を多く吸収しすぎる。上着とズボンはいいが、手が濡れる。髪の毛や顔も濡れる。靴は普通の革靴のため、色が変わってきている。水溜まりに足をつっこんでしまわない限りは大丈夫なのだが、ズボンから流れてきた雨水が靴にかかる。既に靴下がじとっとしてきている。
 もうそろそろ限界かもしれない。
 静岡は服の耐水実験のため、歩いているわけではない。雨の日に散歩に出たのだ。本来ならこの気候では出ない。傘を差してまで散歩に行こうと思わない。ただ、出るとき、大した降りではなかった。これは静岡の中では降っていないのと同じだった。確かに降っているが、この程度なら降っているうちに入らないのだ。この基準がそもそも怪しいのだが、雨は降っていない方が良いという頭がある。晴れていなくても、曇りでもいい。だから、この小雨は無視したい。何とか曇り日として認識したいのだろう。
 しかし、今日は雨だという事実がじわじわ伝わってくる。つまり濡れが認識できる度に。
 傘を差せばいいのだ。
 しかし、それでは雨の日であることを認めたことになる。これはしたくない。何故なら雨の日なら散歩に出ていないからだ。認めると静岡の行動が間違っていたことになる。それなら傘を持って来なければいいのだ。それを持つことで雨の日を認めていることになるのだから。
 だが、雨が降っていなくても傘を持ち歩くことがある。降りそうな日だ。だから傘を持ったからといって雨の日だと認めたことにはならない。
 差さなければいい。持つのはいいが、差すのは御法度だ。
 しかし、差したい。そのために持って来たのだ。万が一のことを考えて。
 だから、出るときは雨ではなく、出て、しばらくしてから雨になった。それでもいける。
 だが、雨の降り方は出るときも今も変わっていない。ただ水分を溜めすぎた。水気を受けすぎ、そろそろ衣服も限界に近い。いち早く爪先が冷たくなってきている。濡れている感触がある。靴の縫い目から染み込んできたのだろう。
 防水性のある靴にすべきだった。
 しかし、それも時間の問題だろう。靴は大丈夫でも、髪の毛にかなり水分が溜まっているはずで、感触が頭皮にきている。当然睫や眉毛にも水を感じる。
 だから、散歩の途中から雨が降り出し、それを予測して持って来た傘を差し、難なきを得た。という話でもいいのだ。静岡はそれに乗るしかない。
 そして限界値に達し、傘のレバーを押した。パット開くとき、傘も濡れていたので、そのしぶきがかかった。
 しかし、雨は最初から降っていたのだ。これを降っていないものとして見ていたのだが、もうそれを見て見ぬ振りは出来ない。
 傘を差した静岡はほっとしたが、実は雨中の散歩は嫌いだった。傘を差しての散歩が嫌いなのだ。だから今、嫌いなことをしている。
 それで、引き返すことにした。
 結局濡れただけの話だ。
 
   了



2014年3月8日

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