小説 川崎サイト

 

一時間

川崎ゆきお



「一時間間違えると、大変なことになりますなあ」
「そうですか」
 隠居さん同士の会話なので、大層な話ではない。ああ、勘違いしていた、程度で済む話だ。
「八時だと思っていたら九時でした。私は慌てましたがな」
「ほう、それは大変だ」
「よく考えるとねえ、いや、この場合、考えじゃない。思考じゃない。ただ思っただけの話なんだがね」
「聞きましょう」
「はい、聞いてください。他に重要な話題がないようなので」
「前置きはよろしいですから、早く」
「起きたのが遅かったことを忘れていました」
「それでスケジュールが一時間ずれたのですね」
「この寄り合いは十時からでしょ」
「そうです」
「時計を見ると十時前なんです。慌てましたよ。その時間、部屋でテレビを見ているのですがね。少し変だなあとは思いましたよ。いつもの番組がもう終わりに近い。それで気付きましたよ。起きた時間が遅かったことを。私は慌てて用意し、ここに走って来ました。でないと遅刻だ」
「でも坂本さん、きっちり同じ時間に来る人は坂本さんぐらいですよ。だから走らなくても」
「久しぶりに走りましたよ」
「本当に走りましたか。走っていると思っておられただけじゃなかったのですか」
「ああ、急ぎ足程度かなあ」
「私も長い間走ってません。歩き方を早める、あるいは歩幅を広げる。あるいはテンポを早くする。その程度で、カケッコのときのような走り方はしていない。どうなんです。坂本さん」
「ああ、走ってませんでした」
「まあ、この年で走る用事はないですがね」
「そうですねえ。走ればまだ渡れる信号も、最近は待ってます。急いで渡る用事でもないし。しかし、この寄り合いには、きっちり同じ時間に入りたい」
「それで間に合ったのですね」
「はい、私が一番乗りです。逆に早く着きました」
「その後、私が来た」
「そうです」
「しかし、他の人はまだでしょ」
「そうですなあ」
「毎日来ている人も珍しいですしね」
「私は無遅刻無欠席です」
「では、今日は危なかったと」
「そうなんです、高橋さん。一時間のずれに気付かなければ大変なことになっていました」
「そんな大袈裟な」
「いやいや、そうではありません、高橋さん。これは私にとっては大事なことでしてね。無遅刻無欠席を続けることが目標なのです」
「では、もし遅れていたら、どうします。ショックですか」
「もう、明日からは来ません」
「いやいや、そこまでは……。そんな目標など持たない方がよろしいかと」
「そうですねえ、高橋さん。変な縛りを自分で科しているのが分かります。しかし、今まで何をやっても続きませなんだ。だから、この寄り合いでの出席だけは何とか続けたいと思うようになったのです」
「まあ、そう思われるのなら、ご勝手に」
 他の人が入って来たので、この話はここで終わった。
 翌日、坂本は二時間寝過ごした。それに気付いたとき、もう寄り合いの開始時間を過ぎていた。
 その後、坂本は二度とその寄り合いには来なかった。
 
   了


 


2014年3月28日

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