小説 川崎サイト

 

路地裏の自転車散歩者

川崎ゆきお



「昔の長屋なんですがなあ、まだ残っていましてねえ」
「それは珍しい」
「私がまだ小学生になったかならないかの時代ですがね」
「あ、その時代なら、まだ残っているでしょ。というより、現役バリバリでしょ。長屋なので、アパートじゃない。棟は繋がっているが、一軒一軒別だ。門まであったりしますよ」
「その頃、親戚が、そんな長屋に住んでいましてねえ」
「秋山さん」
「はい」
「ここは怪談を語る会なのですから、よろしく」
「はい、語っておりますよ」
「はい、間違いなければ続けてください」
「家族と一緒に泊まりに行った記憶があるのですよ。私は三人兄弟でして、子供らだけでも遊びに行ったこともがありましたなあ」
「間違っていませんねえ。秋山さん」
「ここを語らないと、理解が乏しくなりますからね」
「はい、続けてください」
「私は小学二年か三年だったと思いますよ。この頃の記憶は殆どないのです。忘れたのでしょうなあ。思い出すこともない。ところが、ある日自転車で散歩に出たとき、ふと思い出したんですよ。確かこの辺りだったとね。家からそれほど離れていないのですが、かなり遠くにあるバス停から乗ったと思います。市バスじゃなく、あれは電鉄会社の長距離バスだったと思います。駅と駅を繋ぐようなね。そのバスはですねえ。それ以外に乗った記憶がない」
「はい」
「その後も、その親戚は遊びによく来ていましたがね。どこに引っ越したのかは知りませんでした。あの長屋からね」
「はい、そろそろですよ。秋山さん」
「義理のお婆さん一家が住んでいた」
「そのお婆さんがどうかされたのですかな」
「どうもしません。天寿を全うしただけです」
「はい」
「話はそれではなく、その長屋なんです。その近くまで来たとき、何となく記憶にあるんです。大きな道がありましてねえ。そこのバス停で降りた。その横は大きな工場の塀でしてねえ。住友か三菱かは忘れましたが」
「はい」
「もしかすると、ここかもしれないと思える家並みを見つけたのですよ。あの長屋の端にあった散髪屋が目印なんです。そこから先は出ては駄目だと、お婆さんに言われていましたからね」
「当時の長屋がまだ残っていたのですか」
「はい、歯抜けになってますが、路地はそのままです。そこは今見ると私道と言うより、余地ですよ。舗装もされていません。その路地も含めて地主さんのものなんでしょうねえ」
「それで、お婆さんの家は見つかりましたか」
「ありました。そのままです。表札は変わっていますがね。その棟の区切りがありましてねえ。長屋の区切りです。犬ぐらいしか通れないような。その隙間から長屋の裏庭に出られるのですよ。覚えていました。すると共同井戸がある。これも記憶にありました。その近くに納屋のようなもの、便所のようなものがありましてねえ。これは共同の風呂なんですよ。ここに入った記憶があるんです」
「それで、何か変わったことは」
「ああ、それで、これは遺跡だと思いましたなあ。よく残っていると。まだ住んでいる人がいますが」
「それだけですか」
「その後が大変だったのです」
「はい」
「それを覗き見して、路地に止めていた自転車に乗り、ああ、懐かしいなあ、と思いながら、漕ぎ出したのですが」
「はい」
「その路地がずっと続いているんです」
「そこに来ましたか」
「思い出に浸りながら、走っていたもので、あまり前をよく見ていなかったんでしょうねえ。頭の中は昔の風景が回っていましたよ。忘れていただけで、記憶にあったのです。出てきました」
「はい」
「それで、何処をどう走ったのか、よく覚えていませんが、抜けられないのですよ」
「その長屋の路地をですか」
「いやいや、そうではありません。長屋の路地なんて、僅かな距離ですよ。すぐです。その先を走っているのですが、そこも古いのです。トタンを張り付けただけの町工場とか」
「まだ残っているのですね」
「違います。多少は残っていますが、全部が全部なんです」
「何が全部なのですか。田中さん」
「町そのものが」
「あ、はい」
「これはさすがにやりましたよ」
「やりましたねえ。田中さん。でもこうしてここで喋っておられるのですから、抜け出せたのですよね」
「そういうことなんですが、あの長屋と同じような長屋がその町には沢山ありましてねえ。婆さんが住んでいた長屋は平屋でしたが、二階建ての長屋もある。あれは高級だ。それに透き間を少し空けた板塀が続いていたり、原ぱっぱに土管だけがポツンとあったりする。そこで遊んでいる子供達は黄ばんで見えましたよ」
「はい、ご苦労様でした」
「いえいえ」
「でも、あまり作らないように、お願いします」
「はい、少し想像力を働かせすぎました」
「少しじゃないです。かなりですよ。田中さん」
「はい、ご無礼を」
 
   了
 


 


2014年5月11日

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