小説 川崎サイト

 

使い捨てライター

川崎ゆきお



 ちょっと気を抜いたとき、見えてくる世界がある。気を入れているときも見えているのだが、それはメインではない。目的ではないため、それほど見ていないのだろう。だから、そのものをそれ以上深くは見ない。
 ただ、これはぼんやりとしているだけなので、それが目的ではない。
 野島はそんなことを思いながら使い捨てライターを見ていたわけではない。愛用のライターなら、それを買ったとき、しばらくは丁寧に眺めているだろう。そして、代価分充実した気分になるし、しばらくは、またはかなりの年月、これを使うことになる。使い慣れた道具のようの。
 野島は最近使い捨てライターそのものを買った覚えはない。十個入りの煙草を買うとライターが付いてくるからだ。それが結構溜まっている。
 使い捨てライターは使い切ると捨てる。そして溜まっていたライターの中から一つ取り出し、それを持ち歩く。どれも似たような形だが色が多少違う。点火用の引き金のようなものがボタン式か歯車式かが違う程度だ。しかし、それらをまじまじと見ることはない。
 だが、ふと気が抜けたとき、ぼんやりと目の前の物を見ていると、そのライターが目に入った。ああ、こんなライターを持ち歩いていたのかと、そのとき初めて気付くようなものだ。こういう気付きは、気付いたからといって、ハナから気にしていない物だけに、気を付けて、確認するようなことではない。
 気を抜くと、そういうのが見えてくる。他に見るべき物がないためだろうか。
 野島は、もしかしてこれは贅沢なことではないかと、少しだけ思う。作った余裕ではないが、ぼんやりとしているから、出てきた世界だ。それは最初から、そこにあるのだが。
 気を抜くことは油断することであり、車の運転中などは危ない。命取りだ。
 しかし助手席に座っていると、ぼんやり出来る。流れすぎる看板文字などを見たりとか。雲の形が変わっていくのを見るとか。
 つまり、贅沢というのは、そういう状況にいることを差すのだろう。
 ただ、張りつめていた気持ちが急に落ち、落胆したときなども、今まで見ていなかった物が目に入ることもある。ああ、こんな靴紐だったのか、など。
 気合いを入れているときより、抜いているときの方が、なめらかに行くこともある。
 野島はふとそんなことを感じたのだが、この気を抜くというのは嫌な作業以外では作為的に出来そうにないことも知っている。
 使い捨てライターを見ながら能島は、何か新しいアイデアでも浮かんだのかというと、そんなこともない。
 あるべき物がある程度の話だ。
 
   了
 
 


2014年5月28日

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