小説 川崎サイト

 

お梅雨さん

川崎ゆきお



 岡村は、昔からここに住んでいるというお婆さんと話している。
「雨が降ってますなあ」
「まだ、梅雨入りしていませんが」
「お露さんですわ」
「梅雨にさん付けですか」岡村は、このお婆さんは癖のある人だと直感する。
「名前です。つゆ」
「ああ、牡丹灯籠のお露さんですか」
「ご存じで」
「色町の女性でしょ」
「お供の女性も連れていますよ。侍女」
「通って来るのですね。思い出しました。それで、お札を貼って入れないようにするんでしたねえ」
「そうしないと、主人公の侍は、なさりすぎて枯死しますからねえ」
「それは中国の話でしたか」
「そうだと思います。怪談物の元ネタはほとんどそうだと言われていますわ」
「ああ、それも聞いたことがあります」
 東屋に雨が煙る。
「梅雨入りを、私はお露さんと呼んでいます。いいでしょ」
「いいですなあ、艶っぽい。しかし、まだ梅雨じゃないでしょ」
「もうすぐです」
「はい」
「この季節、雨が多いので、田に水を張り、田植えが始まります。一面海のように広くね」
 東屋は住宅地の中にあり、昔の面影はない。
「この辺りは海原のようでしたよ」
「それは広すぎる。湖程度で」
「そう、池よりは広い。遙か彼方まで水田でね。まだ田植え前なので、何もない。ただの水たまり」
「はい」
「どこに隠れていたのか虫が泳いでいる。蛙も鳴き出す。ミズスマシも泳ぐ。あれは、網ですくっても、入ったのかどうかよく分かりません。よく見ると蜘蛛のようなのがいるのよ」
「この近くで育ったのですかな」
「はい、農家で育ちました」
「私が、引っ越す前は、そんな町だったのですね」
「村です」
「はい」
 翌日、岡村は東屋へ行くが、昨日の人はいない。それからも、ずっと見ることはなかった。
 東屋に妙なカードが貼られている。小さい。
 よく見ると寺のお札だ。
 昨日はなかった。
 今日も東屋は雨で霞んでいる。梅雨に入ったようだ。
 
   了
 


 
 


2014年5月31日

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