小説 川崎サイト

 

朝のカフェ

川崎ゆきお



 不特定多数の人が行き交う大通りのカッフェ。実際には喫茶店だが、店が開く朝早くから客が来ている。
 画家の田所はパリのカフェを勝手に連想し、その雰囲気に近い店へ毎朝通っている。歩道に面した敷地にはテーブルや日除けもある。さすが梅雨時は、そこに座る客は少ないが、なくはない。店内の冷房よりも、外気の方がいいためだろうか。しかし湿気は店内の方がましだ。
 田所は三番か四番だ。野球の打順ではない。しかし、三番四番は強打者が多い。ホームランバッターだ。喫茶店に入る順番とは何ら関係はないが、六番以下にはなったことはない。まるで定期便のように通っている。
 そこから世間が見えると田所は考えている。何かの縮図を見ているように。それは客層や、客の着ているものの変化や、混み具合など、世間というほど大げさなものではない。その極一片、片鱗だ。
 画家なので、そういう視覚的なものには敏感なのだ。ただそれ以上の奥行きはないようで、深読みはしない。
 最近感じているのは来なくなった人や、たまにしか来ない人が増えたことだ。いつもの一番か二番の老人が来ていない。雨の日でも来ている人だ。
 田所は、その理由を梅雨時の気候にあると考えている。低気圧でしんどい。湿気でしんどく、出てくるのがたいそうになるのか、または、体調を考え、静かにしているのだと推測する。それは田所がそうだから。
 まず喉が細くなったように、息苦しい。外は暑いのだが、店内は涼しいほどで、それで鼻水が出る。
 足か腰の悪そうな杖をついた年寄りが春先はよく来ていたのだが、最近はとびとびに来る。これは湿気が足か腰にくるのかもしれない。
 つまり、悪いところに出るタイプの年寄りだろうか。
 田所は日課なので、多少調子が悪くても来る。朝はここで世間を見てから、アトリエで絵を画くためだ。大した絵を画いているわけではなく、売れてもいないのだが、雰囲気だけはパリで修行してき西洋画家気取りなのだ。朝はカフェからスタートする、などがそれだ。最初は意識的だったが、最近は癖になっている。
 田所は想像で人物を画く。カフェでこっそりスケッチなどはしない。形ではなく、表情を見て帰るのだ。
 表情というのは一面では分からない。毎日その人の顔を見ていないと、変化が分からないのだ。
 だから、同じ人がコーヒーを飲んでいても、昨日と違う表情になっている。この僅かな表情の違いを田所は見逃さない。ここに人物画の極意があると踏んでいるためだ。
 だから、カフェで顔だけは知っている赤の他人の顔色を観察するのだ。これは仕事なのだ。だから、梅雨時の空も体もなまったような日でも来ている。
 田所が最終的に完成したい絵とは、表情の乏しい絵だが、あらゆる表情が入っている顔。それが含まれている顔。
 これは到達しない。だから、画き続けられるのだろう。
 その田所、最近視線を感じている。数日前から来るようになった中年男だが、よく目が合う。相手もこちらを観察しているのだろうか。
 その男の正体は分からない。だからいいのだと田所は思う。
 勝手な想像。これが原動力になっているためだろう。
 
   了
 


2014年6月17日

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