小説 川崎サイト

 

猫石

川崎ゆきお



「世の中が変わると、昔からあったものがなくなったりしますなあ。以前なら必須だったのが、そうじゃなくなっています」
「世は移り変わりますよ」
「そうだねえ、最近はさらにテンポが速い。少しは落ちるのかと思っていたら、まだまだ速い。変わりが速い。まあ、それに慣れてしまいましたが、悪い面だけじゃない。無駄なこともずいぶんと付き合わされてきましたよ。それがなくなった。これは肩の荷が降りてほっとしたりしています。今考えると、なくても痛くも痒くもなかったことが多い」
「何を指して言われているのですか」
「私の周辺、私自身に関してなら必読本です。必ず読んでおかないといけない本です。古典も含まれていますが、押さえておかないといけない新しい本もあります。といっても何十年も前の本ですがね。そういうのを若い頃は必死で読んでいた。当然読めなかったのもある。高くて買えなかったり、読む時間も限られていますからねえ。それで、少し暇になった頃、抜かしていた本を古書店で探し出してきて読んだ。この本は読んでいなければ、恥だった。そういう本がまだいろいろある。全部は無理だけど、あの頃読んでいなかった本を今読んでいるのです」
「読書の話でしたか」
「それだけとは限りませんが、別に読まなくてもよかったんじゃないかという必読書、必須本もありました。こういうのがどうして読んでいなければ恥なのか、今ではよく分かりません。省略してもよかったんだ」
「はい」
「それにねえ。若い頃に読んだ難しい目の本。ほとんど内容は忘れてしまいました。身になり肉にならなかったのでしょうなあ。言葉だけが一人で飛び回っているようで、中は空です。説明しろと言われても、出てこない」
「難しい本を読んでいたのですねえ」
「それらを読んでいなければ話にならなかった。読んでいて当たり前。だから、必死で読みましたよ」
「はい」
「あなた、本、どうです」
「あ、僕ですか。適当に読んでますが、実用書が多いですねえ」
「あ、そう。あの頃、読んでいた本が無駄だったとは言いませんが、大して役には立たなかったし、人生も豊かにはならなかった。私は本好きじゃなかったのかもしれませんねえ。本から学んだことはありません。人から学んだことは多いですし、人生を左右することもありました。だから、本は省略してもいいんだ」
「いや、僕は詳しくないから、よく分かりませんが、大村さんの時代はそれがふつうだったのでしょうねえ」
「本だけじゃなく、行事もそうだ。今じゃ、消えた行事がいっぱいある。消えても何ともない。あれはやはり省略してもよかったんだ」
「そうですか、でもイベントなんかが増えているようですよ」
「村の行事や、家の行事、そういうのが少なくなって、楽と言えば楽なんですが、少し寂しい」
「それで、お聞きしたいのですが、これは何ですか」
 二人は石饅頭の前で立ち話をしていた。漬け物石程度のものが道端に置かれている。
「お石さんです」
「はい」
「お意志とも呼びます」
 確かに若い頃から難しい本を読んできた老人とは思えない発言だ。迷信を語り出している。
「これをお意志様と呼ぶのは私独自で、他にはいません」
「はい」
「四丁目の谷崎さんはキツネ石と呼んでます。ほら、この真ん中あたりに二本の筋のようなものがあるでしょ。これがキツネの目に見えるんですよね。丸顔のキツネですがね。私は猫に似ていると思います。だから猫石です」
「はい」
「こういった石参りは、もうなくなってしまった行事なんです。そういうものが最近妙に懐かしい。無駄なことです。意味のないことです。これこそ省略してもいいことなんです。しかしです」
「はいはい」
「あえて、私はしたい。やけくそじゃないけど、私が読んできた本など何の役にも立たなかった。それはいい。しかし、そういう役に立たないことが懐かしいのです」
「よく分かりませんが、そういう心境になられているわけですね」
「世の中はすべて迷信でできていた。それが結論です」
「あ、はい」
「悪いことじゃない。私はそれに気付き、ほっとしましたよ」
 青年は何とも言えなかった。
 
   了

 


2014年8月10日

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