小説 川崎サイト

 

つられ笑い

川崎ゆきお



「人間の感覚や感性は、何処まで行っても思い込みのようなものの延長でしょうねえ。いやいや、これは経験豊富なあなたの眼識にケチを付けるわけじゃありませんよ」
「何かありましたか。私に何か粗相でも」
「粗相とはまた珍しい。しばらく聞いてませんよ」
「大先輩であり、この業界では神と言われているお方です。粗相があっては、この世界では生きていけません」
「それが、そもそも思い込みなんですよ。もし、同じことを別の人が言えばどうです。あなた、耳をかしますか」
「間違ったことを言っていなければ」
「私の話は間違いかもしれませんよ。それでもいいのですか」
「あなたは、そんな発言はされません」
「それが思い込みなんですよ。まずは私の言葉以前に、あなたは私という人間を知っている。それが思い込みの故郷です」
「僕に何か粗相がありましたか。それで呼び出されたのでは」
「お呼びした用件はすみましたでしょ。あなたに貸していた本を返してもらった。だから、もう用件はすみました。後は余談です」
「先生が、そういう余談をするときは、含みがあるときです。何か申されたいことがあるのでは」
「丁寧ですねえ、あなたは。誰に対しても、そういう態度をとったほうがよろしいですよ」
「問題がありましたか。どこかで悪い噂でも聞かれましたか。誰だろう。そんなことを吹き込むのは」
「誰からも聞いていませんよ。ただ、独り言も何なので、思い込みについて話しているだけですよ。あなたのことじゃないですからね」
「僕のことでしょ」
「まあまあ、落ち着いて。私は人に説教するようなタイプじゃないし、その器量もありません」
「でも、もうこの業界では大長老ですよ」
「いい人はみなさん早くなくなりましたので、残っているのは私程度になっているだけですよ」
「感性の話を続けましょう」
「ああ、はいはい。感性の殆どは思い込みから来ていると思いませんか。いや、無理に同意する必要はありませんよ。こういうことを言い出すのも、私の錯覚かもしれません。また、これこそが私の思い込みで、他の人には当てはまらないかもしれません。だから、こっそりと誰かに話す程度です。独り言のようなものですからねえ」
「まずは話し手が物語を持っているということですね。その文脈でしかないと」
「また、難しいことを」
「失礼しました。僕もそれなりに考えるところがありますから」
「そうでしょうねえ」
「この人が点てたお茶はおいしい。ということですか」
「そうです。お茶の前に人がいます」
「その人の味がするわけですね」
「はははは、それはいい。いい感性ですよ」
「それが思い込みだと言うことですね」
「先にあなたが言ったので、もう何も言うことはありません」
「そんなことを最近考えておられたのですか」
「その感性の乱用がねえ」
「はあ」
「思い込みにも色々あるでしょ。良い思い込みも悪い思い込みも」
「先入観ですね」
「その場合、感性のうちです。ところが、文脈は恐ろしい。ないものまで感性として付け加えてしまう」
「そのほうが物語として都合がいいからですよ」
「そこに思い違いや思い込みではなく、フィクションを作ってしまう。これがねえ」
「気に入らないのですね」
「事実が何処かへ行ってしまい、因果関係も分からなくなる。辻褄を合わせるために感性を使う。感覚を使う。そう感じたとか、そう思ったとかね。これは嘘でしょ。そして、分かる人には分かるんだとうそぶく」
「まさか、それは僕のことじゃ」
「ご心配なく、私自身のことをつぶやいたまでですよ。そうして人を愚弄してきた経験がある。今もやっているかもしれません。分かったような、よく知っているような風で語るとき、たまに使ってしまうのですよ」
「あああ、はい」
「きっと私はそんな立場じゃないのでしょうねえ。私程度の人間しか残らなかった」
「そんなことはありませんよ。先生」
「そうやって祭ってくれるのは有り難いのですが、中身はないのです。私の同輩や先輩たちと比べてね。しかし、いい人は先に行くものですよ」
「あああ」
「いやいや、つい愚痴ってしまいました。そんなことを言い出すようでは、私もそろそろですか……ははははは」
「ははははは」
 何となくつられて笑ってしまったようだ。そこまで合わせる必要はないのだが。
 
   了


 

 


2014年8月29日

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