小説 川崎サイト

 

本当の話

川崎ゆきお



 ある世代とある世代とは別の世界に住んでいるような雰囲気がある。当然誰でも年代により雰囲気は違ってくるのだが、持ち込んだものも多い。それは見たり聞いたりしてきたものだ。それらはいつの間にか積み重ねられていくのだが、持ちネタとしては常にある。
 分かりやすいのは若い人達が集まったときの話題と、年寄りの集まりでの話題が違う。同じ世界に住んでいるので、当然共通するものも多い。ただ、ある人がテレビなどで話題になったとき、年寄りから見ると、それは誰それの息子だとか、娘だとかのイメージで見てしまう。これが持ち込んだものの影響だ。それらは人生の豊かさ見識の広さではなく、印象なのだ。何らかの含みで見てしまう。先入観と言うと悪く聞こえるが、素直な見方かどうかは分からない。知っていることで、見方に深みが加わるのだが、それらは情報的なものだろう。
 若い頃からの蓄積、今もそのとき持ち込んだものが増え続けているのだが、そういった情報系ではなく、精神面では止まっていることがある。これはいつ頃固定したのかは分からない。年を取る度に感動が薄くなるのは、根に染み込まないのだろう。これは専門的にどう言うのかは分からないが、自我が固まっているのだろうか。自我とは自分が生きやすいようにこしらえたようなもので、便利なものだ。
 この精神面での固定は意外と早いかもしれない。昔なら成人に達し、大人と認められたとき、そこでできたのかもしれない。基本的に学ぶべき慣習などは、そこで得たもので、固定する。しかし、時代が新しいほど、成人年齢が遅く、そして、ない場合もある。
 岸和田老人は、自分が子供の頃に見ていた老人を思い出している。
「確かに浪曲など唸らないねえ」
「子供の頃、聞きましたか?」
「唸っていた人がいた。わしも年を取ると、唸るようになるのだと思っていたが、そうじゃなかった。誰も唸っていないしね」
「私は年を取ると寺社回りに行くと思っていましたが、行ってませんなあ、まあ、年寄りの真似事で、行くこともありますが、それは本心からじゃない。年寄りの真似をしているだけですよ」
「いやあ、本当に参っている人もいるでしょ」
「でもあれは遊びですよ。行く所がないので、そういう所に出かけるのですよ。信心じゃない」
「何でしょうねえ」
「年寄りになったから、年寄り臭いことをしても大丈夫と思い、やっているだけですよ」
「じゃ、あなたの精神年齢はいくつですかな」
「あなた、その年寄り臭い喋り方、知ってでしょ」
「知って」
「わざとでしょ。いつからですか」
「ああ、それはですなあ、こういうモッチャリとした喋り方をしても違和感がなくなってからですよ。年寄りの真似です」
「それで、本当の精神年齢は?」
「そうですなあ、やはり若い頃でしょ」
「そこまで若くないですよ」
「いや、そこで根付いてしまったと思うのですね。だから、そこが基準になる」
「感受性がまだ豊かな時代ですか」
「いや、徐々に落ち着いて、纏めに入った頃でしょう」
「じゃ、若いと言っても三十前」
「二十歳後半でしょうなあ。自分でできる、または可能な世界が見えてきた頃でしょ」
「そこで止まっていると」
「そうです。映画も歌もお芝居も、政治もそうです」
「それは岸和田さんだけに限った話でしょ」
「そうですなあ」
「今はどうですか」
「今は子供の頃や若い時代に見ていた年寄りの真似事をやってます。決して現役の年寄りじゃなくね」
「ああ、それはありますなあ。年寄りらしくというやつでしょ」
「どちらにしても、若い頃に根があるのですな」
「そうです。だから、年寄りになったから、年寄り臭くなったんじゃなく、その芽はもっと昔に、モデルとしてあるんですよ」
「しかし、まあ」
「何ですか」
「特にやることがないので、適当なことをやっているんでしょうなあ」
「しかし、見ている世界は違いますよ」
「ほう」
「決して今を生きていないのかもしれませんなあ」
「それも含めて、今なんでしょう」
「ほう」
「いつも思うのですがね、あの頃は……と」
「ほう、あの頃ねえ」
「しかし、いつの頃なのか、はっきりしない」
「きっとそれは若い頃想像していたあの頃じゃないのですかな」
「何処にもないと」
「あの頃思っていたあの頃なのでね」
「それも一つの世界なんでしょうなあ」
「一度も存在しなかった世界ですが、その片鱗に少しだけ触れたこともあったかもしれません」
「ははは、訳が分からなくなりましたよ」
「本当本当」
 
   了
   
   
   

 


2014年11月2日

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