小説 川崎サイト

 

秘伝鴉斬りの剣

川崎ゆきお


 磯川という剣の達人がいると聞いて、若武者はその山荘を訪ねた。かなりの高齢で、隠者に近い。当然弟子はもう取っていない。若武者はこういうところで秘伝を伝授され、今までとは違う強い若武者に変身していく……と、期待された。
 深山幽谷ほど深い山ではないが、辿り着くまでかなりの日数がかかった。あの山の山麓だと教えられ、行ってみると、炭焼き小屋がある程度。すると、達人は炭焼きをしながら、余生を送っているのかと、その小屋で三日ほど待った。炭を焼きに山に入ったときだけ寝泊まりするような小屋なので、用がなければ炭焼き人も来ない。結局来たのは中年の猟師で、達人ではなかった。
 そういう間違いが何度もあり、やっと目指す隠者の住む山荘を探り当てた。ここまでは苦労と言うほどのことではないが、他の武芸者が知らない達人だけに、穴と言えば穴だ。人気のある達人は、よく知られており、訪ねる人も多い。
 山荘の隠者は領主だった。といっても、狭い谷間を領しているだけで、百姓家が数戸ある程度。ただ、先祖代々の領地で、狭いのは飛び地のためだ。つまり、先祖が昔立てた手柄の恩賞で頂いた土地なのだ。当然、誰もそんな場所に行かない。年貢も請負人に任せているが逆に赤字になる。
 そんな僻地に、自分の領地があることを知った達人は、年取ってから、ここに引っ越した。
「秘伝かな」
「そうです。剣の極意を」
「そんなものはない。剣客が勝手に言いだしたものでな。刀で人を斬るなんて、滅多にない」
「はい、でも、先生は達人だと聞きましたが」
「ああ、達人株を買っただけのことだ」
「そんなのがあるのですか」
「まあ、それで、しばらくは商売になった。門弟から金を巻き上げるだけの話だからな。まあ、その見返りに免許を与える。これもただの紙切れを丸めたものだ。何も書かれてはおらん。分かり切ったことしか」
「あ、はい」
「だから、極意などないし、そんなものを必要とするのは、同業者だけだよ」
「秘伝の技。鴉返し斬りがあると聞きましたが」
「ああ、昔はそんな嘘を付いたこともある」
「飛ぶ鴉を斬るとか」
「届かんよ」
「そうですね。しかし聞いた話では、そっと近付き、一気に」
「殺気を殺して、何とか何とか、インチキ臭いことを言ったものだ。今考えると、恥ずかしい」
「はあ」
「わざわざこんなところまで、来たんだ。秘伝鴉返しの免許をやろうか」
「あ、はい」
 老人は物置から、巻物を持ってきた。
「ここに書いてある。やり方が」
「はい」
「そんなことは実際にはできんがな」
「いえいえ」
「それで、免許皆伝となる」
「いかほど必要でしょうか」
「もういい。持って帰りなさい。それで役立つのなら」
「はい、ありがとうございます。師匠」
「門弟はもう取らんから、師匠じゃない」
「失礼しました。先生。しかし、何かお礼を」
「まあ、今夜はもう遅いので、ここに泊まっていきなされ、そして夜話で、諸国のことなどを話してくれるか。そういうのを聞くのが好きでな」
「はい、分かりました」
 その後、この山荘から、若武者が降りてくる姿を見た者は誰一人としていなかったとか。
 
   了
   
   
   
   
 


2014年12月2日

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