小説 川崎サイト

 

猟奇王 猟奇の副作用

川崎ゆきお


「さて」
「何がさて、でっか大将」
「首領と呼べ。八百屋の大将に聞こえるではないか」
「最近八百屋の大将も牛乳屋の大将も少ななりましたで」
「陸軍大将に聞こえればよいが、おまえが言うと八百屋になる」
「そうでっか」
 怪人のアジトでの猟奇王とその手下、忍者との会話だ。忍者には名がない。名さえ伏した究極の呼び名。忍びすぎているのだろう。そのため世に出ることはない。常に怪人猟奇王の影となり、縁の下の力持ちの役目を果たしている。
 アジトは闇の中、近くに明かりはない。野中の一軒家のようなもので、忘れ去れたような一帯だ。軍事工廠の跡地だが、一つの建物だけが取り壊されずに残っていた。二階建ての箱のような小さなビル。
 この場所も建物も闇の中にあり、人目に触れない。日中は白日の元にあるのだが背の高い雑草で埋め尽くされいるため、そこに建物があることさえ分からない。それ以前に誰も近付きたくないような場所なのだ。
「さて」
「何でっか首領」
「言えるではないか」
「三日立てば忘れます」
「そうか」
「それより何でっか。その、さては、何かまた悪いこと考えつきましたか」
「キツネうどんが食べたくなった」
「そんなことでっか」
「ああ、久しく食べておらん。インスタントではだめじゃ。カップものではな」
「カップものでも、乾燥してないやつもありまっせ。ふつうのうどんと変わりまへんで」
「汚い大衆食堂で食べたい。うどん屋でもよい」
「讃岐うどんのチェーン店やったらありまっせ」
「汚いか?」
「食べ物屋でっせ、清潔だす」
「だから、だめなんだ。そう言う店ではなく、こ汚い店でないとキツネうどんはうまくない」
 これは一つの贅沢かもしれない。
「しょぼいうどんで、唇でも切れるほど腰がなく柔らかい」
「それは粉が薄いんでっせ」
「蒲鉾は極限の薄さに切られておる。箸で挟むと飛んでいきそうな」
「それはケチなだけでっせ」
「そして甘辛い油揚げ。これは、まあ適当でよい。欲を言えば二枚分ほどのボリュームのある分厚さのな。それでいてソフト」
「もうそれだけの注文で、そんな店存在しまへん」
「いやいや、わしの子供の頃は、そんな店ばかりじゃ」
「時代が違いますがな。町内の飯屋も殆ど潰れてまっせ。生きてるのチェーン店だけや」
「油揚げを箸で押さえると甘い油汁が出る。それが鰹と昆布の出汁に溶け込む寸前、グーと飲む。これが極意じゃ」
「知りまへんがな、大将は怪人でっせ。そんな極意必要おまへん。怪人の極意に走らな」
「極めれば極道よ」
「怪人を極めなはったら」
「だから最終的には極道になる。そんなものになりたいか。おまえは極道の配下になる。チンピラじゃないか」
「それはいやですわ。これでもわては由緒正しき甲賀忍者で、上忍ですから」
 忍者の言う通り、彼には下忍がいる。何人かいるが一人は田植えで田舎へ帰ったまま戻って来ない。
「さて」
「またでっか」
「決行する」
「聞いてまへんで。どんな犯罪計画でした」
「さっきからあれほど説明しておるではないか、キツネうどんを食べに行くのよ」
「ああ」
   ・
 猟奇王、月夜の町をゆく。時代劇に出てくるような深編み笠を被っている。鼻の下が少し見える程度。黒いスーツはいいのだが、目の周囲を覆う仮面を付けている。人相を見られたくないのならサングラスでもかまわない。しかしそれでは怪人らしくない。この仮面とも覆面とも言えるものを取り払うと、ただのサラリーマンか葬式にでも行くときの服装になる。
 深編み笠は前が見えるように透き間が空いている。これで仮面は隠せるのだが、かえってこの深編み笠の方が目立ち、そちらの方が余計に目立つ。
「忍者に作らせたのが失敗だった。これでは時代劇になり、浮いてしまうではないか」
 その通りだ。幅の広い鍔が垂れたような帽子なら、まだ何とかなったろう。しかし手頃な帽子が見付からず、あっても何となくバタ臭い。しかし、ちょうど良いものが見付かれば、それでもかまわない。帽子へのこだわりがないのだろう。だからといって深編み笠で良いのかというと、そうでもない。ここは適当で、バケツを被ってもいいのだ。そうなると鉄仮面になる。それに痛そうだ。深編み笠である必要は何もないが、忍者が古いタイプの人間なので、そうなっただけのこと。そして本来、怪人猟奇王はそんなものを被らなくてもよい。堂々と仮面を付けて町を闊歩すればいいのだ。ただ今夜は仕事ではない。キツネうどんを食べに行くだけなので、お忍びだ。
 古い町並みを探すのは猟奇王の趣味で、簡単に見付け出した。今まで入ったことのない路地で、当然その町も初めて。目的は汚いうどん屋なので、ひなびた町に入り込んだ。ファストフード店や牛丼屋には興味はない。それよりも表通りではなく裏道、さらに狭い路地を猟奇王が好むのは、人を避けるためでもある。
「うどん屋か」
 もう深夜に近い。うどん屋がこの町内に存在していたとしても、とっくに暖簾を引っ込めているだろう。
 ここで猟奇王の目的は消えた。そういった準備も下見もなく、外に出てしまうところに猟奇王の弱点がある。うどん屋へ行くという目的はあるのだが、何処にあるうどん屋なのかまでは調べていない。下町に出れば、うどん屋の一軒ぐらいあるだろう程度。しかも時間帯が悪い。すぐに行き詰まってしまう行動だった。
   ・
「どうでっか大将」
 アジトに戻った猟奇王は早速忍者から聞かれる。
「うどん屋を探せ」
「何でっか」
「うどん屋があるはず。探すように」
「ありまへんで、この近くに」
「遠くでもいい」
「ありまへん」
「そんなバカな。町からこ汚いうどん屋が消えたのか」
「ほとんど廃業でっせ」
「大衆食堂は」
「それは残ってまっせ」
「あるではないか。では、その大衆食堂へ行く。こ汚い食堂でしょぼいキツネうどんを食べるのじゃ」
「そば屋ならありまっせ」
「うどんがいい」
「いやいや、立ち食いそば屋にもうどんはありまっせ。牛丼屋にもありまっせ。こっちは深夜でもやってまっせ。大将何処を探してましたんや」
「裏通りに入ったので」
「表の大きい道沿いに牛丼屋が何店かありまんで」
「そこでうどんは食えるのか」
「天ぷらでも、掻き揚げでも、キツネでも、肉うどんでも、何でもありますがな」
「他はいい。キツネうどんじゃ。しかしそう言う店はだめじゃ」
「何ででっか」
「切符が買えぬ」
「食券機でんな」
「あれはだめじゃ」
「どうしてでっか」
「そんな切符を買ってまでうどんは食べぬ」
「ほう」
「キツネ、と店に入るなり、一言言えば、解決するだろ、うどん屋や飯屋なら」
「そうですけど、簡単でっせ。お金入れて、ボタン押したらよろしいのや」
「その行為がいやじゃ」
「分かりました。わてが大将でも入れそうなうどん屋か大衆食堂見付けます。しかし、深夜は無理でっせ。チェーン店やったらやってるかもしれまへんけど」
「こ汚い店に限る」
「その条件が」
「腰の細そうな親父か婆さんがやっていそうなうどん屋がいい」
「ありまへん、そんな店は」
 忍者は作戦室の机から離れ、ドアを開け、出て行ってしまった。
 しかし数分後、お盆を持って現れた。
「コンビニのキツネうどんや」
「こんなクニャクニャした器で食えるか」
「まあ、まあ」
 忍者はテーブルの上にキツネうどんの入ったカップを置く。そして透明の蓋を開けると鰹出汁の良い香りが作戦本部に漂った。
 鰹に敏感な猫のように、猟奇王はカップうどんに手を出した。
「便利な時代でっしゃろ」
「うどんだけで決まるのではない。うどん屋でうどんは決まるのじゃ」
「文句言うんなら、食べなはんな」
「いや、食べる。腹が減った、ちょうど夜食の時間なのでな。このうどんが気に入ったから食べるのではないぞ。分かったな」
 こ汚いうどん屋で食べなくても、このアジトが、どこかそれに近かった。
   ・
「編み笠」
「そうです」
「他は真っ黒で、三角の大きな笠のような帽子のようなものだけが茶色っぽく浮かんでいました」
「やややはり、この近くにいるんだなあ」
「どうします団長」
「仮面は」
「それはその笠のようなものでよく見えませんでした」
「そうか、人違いかもしれないけど、猟奇王以外には考えられないなあ」
「団長、団員に招集をかけましょうか」
「でも、何度かそんなことがあった。今回も人違いかもしれないから」
「ではまた張ってみます」
「油断するな。猟奇王一人ならいいが、手下の忍者が一緒だと、すぐに悟られる」
「はい、気を付けます」
 この団長と呼ばれる男、通称便所バエ、本名花田寅次郎という探偵だった。
   ・
 どんどん暗くなっていくように猟奇王は感じた。町中なのに暗い。街灯が少ないこともあるが、家の窓明かりが少ない。灯っていても便所の電球のように暗い。
 悪くはない下町だとは思うものの、少し不気味だ。何か他の町とは違う。
 町の変化は激しい。しかし、この町は戻っているように思われる。
 だが、失敗したことになる。こんな寂しいところに店屋などない。古い家が建て込んでいるような場所なのだ。うどん屋どころか店屋もないだろう。あっても洗濯屋か散髪屋程度。しかし、それらさえ見あたらない。道も徐々に狭くなっていく。
 戻ろうかと猟奇王は考えたが、路地の闇に吸い込まれるように進入して行った。
 猟奇王は闇にまみれて散歩に出ることがある。そのときはコンビニやファミレスとよく遭遇する。しかし、この町にはそれがない。
 最悪の場合、牛丼屋でうどんを食べて帰るつもりだった。またはコンビニのうどんだ。忍者がたまに買ってくる。蓋を開けると熱い。コンビニで温めてもらったのだろう。湯を注ぐのではなく、そのまま温めれば出汁が溶けてくるのだ。冷凍ではない。これは冬など、ブリを煮て、そのまま一晩置くとビリができていることがある。ゼリー状になっているのだ。それを温めると、また汁に戻る。そんな方式かもしれない。
 路地の先に変化が見えた。妙な空間だ。路地が集まる場所のようで、ちょっとした広場になっている。そこに提灯の明かり。
「こんなところで何をしておる」
「時うどん屋でございます」
「時うどん?」
「うどん時なので、時うどん屋と名付けました」
「ただのうどんの屋台ではなさそうだが」
「おや、どうして」
「こんな路地溜まりで店を出しても客など来ぬだろ」
「路地が集まっております。だから自然と、ここに人が溜まります」
「誰もおらぬではないか」
「旦那さんがいます」
「誰が」
「お客さんのことです」
「そこまでへりくだることはなかろう。それに旦那身分の金持ちが、こんなこ汚い町に用はなかろうし、第一屋台のうどんなど食べるか」
「まあ、そうでございますが、一杯いかがで」
「非常に確率の低いことをしておる」
「いえいえ」
 トンと、猟奇王は屋台を蹴った。
 ガクンと音がし、うどん屋は後ろの板壁に張り付き、そのまま横滑りに駆け抜けた。
 猟奇王は四方を見る。
「誰や夜中にー」
 猟奇王、上を見ると、声の主は二階の窓から。
 ピシャリと窓が閉まる。
 そのあと気配はない。静まりかえっている。
 ギャーという悲鳴が聞こえる。そして足音と共に遠くの方へ去っていく。
「無事でしたか」
 横に急に忍者が来ている。
「誰だった」
「分かりまへん」
「ほう」
「尾行されてましたので、わてが、その尾行を尾行してましたんやわ」
 猟奇王は屋台を見る。車が付いており、移動できるようだ。
「わざわざ、このために、こんな大道具を用意したというのか」
「そうですなあ」
「目的は」
「大将、狙われてまっせ」
「それはいい感じではないか」
 しかし、どうして敵は猟奇王がうどん屋を探していることを知ったのだろうか。
   ・
「団長、しくじったようです」
「実行部隊は」
「そのまま逃げました」
「まさか引っかかるとは思いませんでした」
 探偵団長便所バエこと花田寅次郎にしては知恵を絞ったわけだ。慣れないことをしたためだろう。これは組織の上にある人間にありがちなことだ。部下に命じて何かやりたかっただけなのだ。
 しかし、ここで何が行われているのか、何が起こっているのかを語らなければならないが、実は何も起こっていない。ただ、探偵は怪人を追う宿命があり、それに従っただけのこと。これは動物で言えば本能だが、人にとってそれは思い込みにすぎない。探偵は怪人を追うものだという錯覚の上に成り立っている。
 便所バエの浅知恵は確率の低いものだった。かねてからの調査や噂から、猟奇王は深夜の下町に出没すること、キツネうどんが好きなこと。これだけでは確率は低い。猟奇王の散歩時間帯は深夜。そこにうどん屋を出せば、必ず引っかかると思ったのだ。そして、うどんの出汁に眠り薬を混ぜて眠らせる。そして御用と引っ括る。
 この確率の低い作戦を聞いて団員たちは知らぬ顔をした。しかし団長の命令は聞かないといけないので、実行した。瓢箪から駒で、その僅かな確率にかかったのだ。
「団長、そんな悠長なことをしないで、アジトをいきなり襲えばいいじゃないですか」
「ばば場所が分からないんだ」
「原っぱの中でしょ」
「何度行っても、そんな建物はないんだなあ」
「じゃ、別の場所でしょ」
「紅ガラスの言うことを鵜呑みにしてはいけないのかもしれないなあ」
 怪傑紅ガラス。それは正義の使者だった。ただし自称。
   ・
「どういうことなのだ」
 アジトの小さな窓から夜景を見ながら猟奇王が呟く。作戦本部は二階にある。三階はない。
「個人の仕業やおまへんなあ。屋台を用意してますやろ。しかも狙いは大将や。そう言うことを企む奴は紅ガラスか探偵でっせ」
「悪知恵なら紅ガラスだな」
「探偵の可能性の方をわてはとります」
「どうしてじゃ」
「トリックを使いましたから」
「紅ガラスはトリックを使わんと申すか」
「あれは正義の使者ですから、そんな姑息な真似はしまへんやろ」
「そうだったか、正義の味方だったか紅ガラスは。すっかり忘れていた」
「まあ、平和な話や」
「何がじゃ」
「相手が紅ガラスか探偵でしたら、気心の知れた相手ですがな」
「まあな」
「さて、どの探偵が動いたかですなあ」
「忍者」
「何でっか大将」
「首領と呼べ」
「あ、はい、首領」
「それなら何も起こってはおらんではないか」
「そうでんがな、うどんを食べに行くのは犯罪やおまへん。首領は何もしてませんしな」
「では何だ」
「むしろ探偵側に問題があるんやおまへんか」
「おまへんか……か。で、目星は」
「探偵のでっか」
「誰だ」
「そこまで分かりまへんけど、年寄りなら沢村探偵、若手では便所バエ。さらに仲代警部もいます。猟奇王が動いたとき、噛んでくる側は、そんなものですわ」
「目的は」
「捕獲でんがな。それだけのことですわ」
「わしは何もしておらんが」
「そうでんがな」
「それなら、うどんの屋台など使う必要はなかろう」
「大将、最近、猟奇に走ってまへんから、つついてきたんとちがいまっか」
「そうじゃなあ、最近は無活動」
「帝都を震撼させな」
「それを期待してか」
「探偵も正義の使者も、怪人が暴れんことには活躍の場がおまへんからなあ」
「わしは静かにしておるのに」
「まあ、そろそろ動き出す時期でっせ」
「うむ」
   ・
 屋台のうどん屋が出ていた路地の広場からさらに奥へ入ったところは空き家がさらに増え、廃屋に近い建物もある。村なら廃村、限界集落のようなものだが、それが都市の中にも存在していた。
 その一軒の空き家に探偵便所バエが訪れた。玄関前や庭先にはおびただしい数のアルミ缶が積まれている。空き家の主は、ここをアルミ御殿とかアルミ館と言っている。しかしアルミ缶で建てた家ではない。母屋とは別に玄関横にアルミ缶で組み立てたアルミ館が出来つつある。
 そのアルミ館の主が怪傑紅ガラス。正義の使者のなれの果てだ。
「失敗しました」便所バエが報告する。探偵団の団長と呼ばれていた男だ。
「よくあること」
「あああるんですか」
「ああ、始終だ。だから気にするな。正義は長い目で見ないといけない。すぐに結果を出そうと思わずな。なぜなら、その存在が善のためだ」
「あ、はい。しかし猟奇王が徘徊していることが分かりました。まだ、いるんですね」
「猟奇王はうどん、たこ焼き、このあたりが好きだ。最中も好きだだが駄菓子の最中ではだめで、江戸屋の粒あん入り最中しか食べんらしい」
「そんなことまで分かっているのですか」
「長いライバルだ。正義と悪との長い戦いの中で得た貴重な蓄積による情報、わざわざ調べたわけではない。私の経験値の高さが物を言っている」
「はい、勉強になります」
「私が与えた団員はよく働くだろう」
「はい、おかげで探偵団の団長になれましたし」
「たまにはアルミ缶を持ってこい」
「あ、はい」
   ・
 この怪傑紅ガラスより、さらに猟奇王に詳しいのは沢村老探偵だ。便所バエの叔父に当たる。親戚に探偵がいることで、そう言うことをしてもいいのだと便所バエは思い、安易な気持ちで探偵になった。知恵はないがタフで粘り強い。それで便所バエのように五月蠅く猟奇王に付きまとっている。ただ、猟奇王が出没している時期はいいが、そうでない場合、探すとなると難しい。今回猟奇王は何ら動きはしていない。そのため、容易ではなかった。別に探し出しても逮捕できない。素人でも逮捕権はある。現行犯逮捕だ。これは捕らえてもよい。だが猟奇王を見付け出しても逮捕できない。犯罪を犯していないからだ。そして猟奇王は記録の上でも公式にも、一度も犯罪を犯していない。それは猟奇王などいないことになっているためだろう。
 さて、とある土産物屋の二階。その万年床で沢村探偵は寝ていた。探偵業は甥の便所バエに十手と共に譲ったようなものだが、譲るほどの定期的仕事はない。
「猟奇王か」
「はい叔父さん」
「まだ、そんなことをしておるのか」
「叔父さんは何度も猟奇王と戦ったのでしょ。それが僕の自慢なんですよ」
「猟奇王の噂をすると猟奇王が現れるので、やめなさい」
「はい、叔父さん」
 しかし、この世で猟奇王の噂などする人など何人いるのだろう。だから現れる可能性などないに等しい。ただ、探偵が怪人を召還するとも言える。逆に怪人が探偵を召還する。
「このところ静かじゃないか、猟奇王も」
「はい、事件は起こしていません」
「さわらぬ神に祟りなし、さわらぬ怪人に祟りなしじゃ」
「それが、さわってしまいました。うどんの屋台の罠で」
 いきなり、うどんがどうの屋台がどうのでは、沢村探偵も分からない。便所バエはそのいきさつを説明した。
「紅ガラスか」
「はい」
「困った奴だ。あのカラスは」
「正義の使者です」
「それが災いをもたらすことを、まだあのカラスは悟らぬようじゃ」
「今はアルミ缶で暮らしています」
 便所バエはアルミ缶でできたアルミ館の話も詳しく伝える。
「それはカンカン拾いのただのホームレスではないか」
「確かに」
「正義の末路を見ても、まだ懲りんとみえる」
「しかし、純粋な人です」
「違う、あいつはあわよくば楽な生活を夢見ておる。猟奇王を倒すことでそれが得られるとは思えん。誰がそんなことを期待しておる。それに猟奇王にはそれほどの価値はない。あれは一種の幻影なんじゃ。幻なんだよ。夢を見ているようなものじゃ。あらぬものをな、お互いに」
「そ、それは」
「それをロマンと言うらしい」
「ぼぼ僕もそれで探偵に憧れて」
「その憧れの探偵である、このわしを見い。未だに下宿住まい。まあ、年金があるので少しはましだがな。おまえも国民年金や国民健康保険に入っておるだろうなあ」
「入ってません」
「馬鹿者が。将来のことを考えよ」
「将来は明日です。明日の明日が、また明日で、それが将来です」
「訳の分からんことを言うな、おまえは頭が悪い。だから叔父さんは心配だ。紅ガラスと関わるでない。おまえは紅ガラスの手下ではないのだからな」
「でも味方でしょ。探偵と正義の味方は共に味方で仲間じゃないですか」
「いや、あの紅ガラスは癖がある。用心しなさい」
「はい」
 そのとき電話が鳴った。
「良かったわい」と沢村探偵。
「え、良いお知らせですか」と、便所バエ。
「電話が鳴ると言うことは」
「鳴ると言うことは?」
「まだ切られいない」
「払わないとだめですよ」
「今日あたり切られると思っていた」
「僕が払ってきます。どうせ基本料金でしょ」
「まあ、そうじゃ。コートを買ったのでな。それで足りなくなったのじゃ。まあ、あまり外には出んが」
「それより、早く出なければ」
「出てくれ」
「はい」
 便所バエは黒い受話器を取った。
「おお叔父さん」
「どうした」
「仲代警部からです」
「何」
「猟奇王が」
 先ほどまで万年床の中で横になりながら話していた沢村探偵、ここでむくっと起き上がった。
「あたた」
「腰でしょ」
「順番を間違えた。一度左を向き、を省略した」
「そそそんなことより、猟奇王が」
「うう」
   ・
「予告状?」忍者の顔が曇る。最初からふさがっているような目が渓谷のようになった。
「少しは仕事をせんとなあ、何かと付け込まれる」
「誰も付け込みまへんけど、まあ、そろそろです。たまには活動せんと。そやけど、何の予告状でっか」
「決まっておる。仏像を盗みに入る」
「予告せんと盗んだらよろしいやないですか」
「それでは泥棒、こそ泥ではないか。怪人はそんな下等な真似はせん。堂々と予告し、警備させ、その上でトリックを使ってまんまと盗み出す。これぞ古典中の古典、大歌舞伎を見るが如くな」
「そう言うことは事前に相談してもらわんと、段取りできまへんで。で、どこのお寺か、博物館でっか」
「大きな屋敷じゃ」
「個人の家でっか」
「うどんの屋台が出ていた近くに、そこだけ馬鹿でかい屋敷があった。そこに予告状を投げ込んでやった」
「子供か!」
「ことの起こりは童心から」
「わては知りまへんで。聞いてまへんからなあ。そんな計画」
「わしもそんな計画は知らん」
「え、何でっか」
「とりあえず予告状を投げ込んだだけ」
「それで、トリックは」
「ない」
「それは疲れまっせ大将」
「ああ、まずは動くことじゃ」
「どう盗み出すかも考えてまへんのやな」
「無計画は世の常よ」
   ・
 腰の悪い沢村探偵は出歩くのが辛いので、甥の便所バエを仲代警部の元へ行かせた。
 官公庁の多いビルの谷間にある喫茶店だ。
「沢村さんの調子が悪いのかね」
「いえ、頭はまだ大丈夫です」
「それほどの年ではないだろ。それで君が代理か。君でもいい。任せるよ」
「猟奇王でしょ」
「それがよく分からん。何も起こっていないしね」
 仲代警部は予告状のコピーを見せる。
「和牛、特価……」
「そこじゃない。チラシの隙間に書かれておる」
「はい」
 みろくぼさつは猟奇王が頂く。と、記されている。弥勒菩薩と漢字で書けなかったようだ。
 予告状を投げ込まれた屋敷の主は警察に通報した。何処をどう伝わったのか、仲代警部に振られた。それを仲代警部は沢村探偵に振るつもりだったのだ。その沢村探偵が故障なので、便所バエに振られた。
「問題がある」
「はい」
「これは成立しない」
「え」
「主の柿崎氏は知らないと言う」
「猟奇王のことをですか」
「猟奇王が狙っている弥勒菩薩だ」
「え」
「だから、そんなものは屋敷にはない」
「ほう」
「仏像のコレクション趣味もない。ただの土地持ちの一家だ」
「じゃ、猟奇王はないものを狙いに」
「無い物ねだりだな」
「呑気なことを、仲代警部」
「だから君で丁度いい。沢村さんを煩わせる必要もないだろう」
「しかし、猟奇王には副作用が」
「本当に猟奇王の仕業ならな」
「そうじゃないのですか」
「分からん。だから君が調べてくれ」
「もし本物の猟奇王が走ったなら、副作用が」
「分かっている」
「そちらの方が重大なのでは」
「君もそれを心配するか」
「はい」
「よく頭が回るじゃないか」
「恥ずかしいです。警部さんに褒められると」
「そうなると警察の手には負えんようになる」
「知ってます。町はパニックになります。帝都は一瞬にして暴徒で」
「それは言い過ぎだが、二三日交通は止まる」
「見たいです。ああ、いえ、それを防がなければ」
「穏やかに走らせてやれ。あれは化け物だ。妖怪だ。魔獣だ。祟り神。さわらぬこと。それが一番」
「ぼ僕がしっかりと押さえ込みます」
「しかし、ここで一つ、しっかりと認識してもらいたいことがある」
「何でしょう、警部」
「猟奇王は存在しない」
「いいいるじゃないですか」
「いない」
「ああ、はい」
「これが公式見解だ。それに従ってほしい」
「よく分かりませんが、分かりました」
「予想外の猟奇事変、つまり副作用が起こりそうなら、すぐに連絡してくれ」
「ああ、はい」
   ・
 猟奇王アジトでは忍者が苦い顔をしている。最初からそんな顔なので、目立たないが。
「忘れておった」
「何をでっか、大将」
「仏像を盗むとは予告したが、日時を書き忘れていた。肉屋の広告の余白なので、スペースが少なかったのだ」
「ほう、それはよろしました。明日でもええし、来年でもええし、十年先でもかまへんことになります。これは安全装置や」
「一週間後、あるいは十日後を予定していたので、そんな先ではない」
「行きますんか、計画もなしに」
「場所も屋敷も決めた。盗むブツも決めた。十分だ」
「それで、弥勒菩薩ですけど、何でそんなのがあると分かりましたんや」
「分かっていない。知らない」
「え」
「それは言いがかりやないか」
「行きがかり上、そういうブツがいるだろ。ブツといえば仏像のブツ。これは怪人の定番。美術品も定番」
「本物の弥勒菩薩やったらええけど、そんな個人が持ってるような、いや、個人でも持ってまへんわ、そんなもん、値打ちが」
「仏像じゃ、新しくても古くても、仏像は仏像」
「広隆寺の弥勒菩薩やのうてよかったわ」
「あれは大きいので持って走れんだろ」
「そうでんなあ」
「それに行き方を知らん」
「有名な寺でんがな、太秦でっせ。撮影所のあるところでんがな」
「太秦は怪しい場所じゃ。縄張りが違う。あそこは別の連中が仕切っておる」
「ほう」
「古代からそうじゃ。京に都ができる前からいる連中じゃ」
「そんな能書きはよろしいから、どうしまんねん。そんな予告状出したら、動くところが動きまっせ」
「だから警備をしてもらうための予告状だ。勝手に押し込んで盗むのは卑怯。怪人としての名が廃る」
「あのう、上忍様。下忍に招集をかけたのですが一人しか来ませんでした」作戦本部に下忍が入って来て伝えた。
「抜忍が出たか」忍者の表情が厳しい。
「僕も交通整理のバイトが詰まってますから」
「シフトを何とかせい。一週間ほど休め」
「そのつもりです。そのかわり、中忍に昇格を」
「抜け忍を始末したらな」
「そんなことできませんよ。あの二号は抜ける気はなく、田舎の田圃をたまに手伝いに帰っているだけです」
「そうか」
「郷忍ですから」
 郷忍とは普段は百姓をしている忍者のことだ。
「分かった。今回は見逃す。三号と四号は?」
「連絡しましたが、三号は家に引き籠っていますし、四号は頭の病気で」
「頭が悪いのか」
「神経の病気で、ちょっと今は使えません」
「忍者、もういい。神経の病気はわしらの方かもしれんからな」
 この当時、怪奇ロマン派の猟奇集団は、この程度のレベルになっていたが、組織的活動はまだ行っていたのである。
 世の末、ロマンの末の猟奇王。その領域は不毛地帯でもあった。
   ・
 猟奇王が予告状を投げ込んだ家は柿崎という屋敷だが、表札はかかっていない。こういう名に合わせたのか、柿の木が何本も植えられており、結構古い。近所の人は渋柿屋敷と呼ぶ。これは子供が付けた名のようだ。屋敷の土塀からはみ出ている柿の実を食べる子は最近見かけないので、かなり前に付けられた名だろう。渋柿だったのだ。
 柿崎屋敷はお寺のように土塀で囲まれているが、その気になれば乗り越えられる。土塀の上に忍び返しや棘の出た針金などは張られていない。非常に鄙びた家で、それが路地の奥に急に現れる。うどんの偽装屋台が出ていた所からそれほど離れていない。
 この辺りの路地が暗いのは、住んでいる人が少ないためだろう。空き家が多い。
 世の中には偶然は滅多にない。猟奇王が当てずっぽに選んだ家は、それなりに大きかったのだ。そしてこんな大きな家が下町の路地沿いにあるのはおかしいが、この一帯の大地主だと言えば理解できよう。元を正せば豪族で、ある時代は百姓に戻っていたが、長者屋敷と呼ばれていた。だから、猟奇王の勘は大きく外れてはいなかった。そんな勘を働かせたわけではなく、大きな家であればよかったのだろう。
 さて、この柿崎屋敷、通称渋柿屋敷に素人探偵便所バエが現れた。
 表は城の大手門のような大門で、さすがにそれは使われていないのか、その横の小さな入り口も閉まっているし、郵便ポストもない。
 この手の大きな門には階段が数段あるのだが、それがない。そこが武家屋敷風なのだ。つまり、馬や駕籠が出入りできるように。
 便所バエは裏手を探す。屋敷の土塀も路地沿いにあるため、狭い道だ。路地沿いの家はどれも小さく、廃屋になっているのもある。古い町並みだが、歴史的遺産になるほど古くはない。
 しばらく土塀沿いに進むと、ふつうの家の玄関のようなものに出た。ここには階段があり、便所バエは三段ほど上ってからインターホンを押した。しかし誰も出てこない。便所バエは一寸玄関戸を開けてみると、ガラガラと横へ動いた。不用心な家だ。
 入ると飛び石があり、左右は生け垣。突き当たりは板壁。本来ならそこが母屋の内玄関になるはずだが板壁に遮られ、先へは進めない。左右の生け垣に身体を入れれば強引に入り込めるが、それでは訪問者ではなく無礼者だろう。
「誰です」板壁から声がする。
「探偵です」
 しばらく返事がない。
「探偵です」
「猟奇王か」
「違います。探偵の側です」
「本当か」
「仲代警部から頼まれました」
「ああ、そうか、それは失礼」
 板壁が開いた。よく見るとそれは大きな木の扉だった。
「猟奇王が来ると聞きましてね、非常用の板戸を閉めていました。普段は開いてますが、あ、どうぞ中へ」
「花田寅次郎です」
「私は当家の主で柿崎赤右衛門です。変わった名前ですが、受け継いだ名前でして」
「何代目かに当たるのですね」
「そうそう、さ、中へ」
 板壁のような大きな扉の向こう側にはまた飛び石があり、母屋の玄関が見える。左右は広場のように広い庭だ。しかし所々に柿の木が植わっている。椿公爵や男爵の家なら、きっと椿が植わっているに違いない。そして椿屋敷と呼ばれる。これは慣わしではなく、何となく縁起物として植えるのだろう。松下さんなら、松とか。
「それで警察は探偵を寄越したわけですね」
「そうです」
「怪人には探偵を、ですか……。洒落た計らいだ」
「はい」
 非常に幅の広い縁側の奥の応接間で二人は話している。畳の上に毛氈が敷かれ、その上に応接セットが並んでいる。何か戦前の大物政治家の私邸のような感じだ。しかし今はここで政局が語られるのではなく、怪人猟奇王が語られている。
「怪人に狙われるとは畏れ入りましたよ。その怪人、猟奇王とか言ったかね、見る目がある。ものをよく見ておる。それはいいが、あいにく当家には弥勒菩薩はない。昔は庭にお稲荷さんの祠があったが、ありふれたものだ」
「どんな祠ですか」
「それが何か関係しますかな」
「いえ、つい聞いてみました」
「ああ、そうなの。あなた探偵らしいけど、変装がうまいねえ」
「え」
「どう見ても、ゴミの日によく現れる人達そっくりだ」
「服装が違うでしょ。僕はスーツだし」
「そうでしたか、それは失礼」
 詳細は省くが、上下の色や柄が少しだけ違う。また、ズボンのベルトは寝間着の紐のようなものを二重三重に巻き通している。これは外すと結構長い。彼に言わせると捕り縄の役目を果たしている。さらに言えば、内ポケットに十手のようなものを忍ばせている。この時代の探偵ではなく、江戸時代の岡っ引きか、目明かしだ。
「そのお稲荷さんの祠はどうなりました」
「私が子供の頃にはあったが、壊れていたよ。先代の誰かが信心していたんだろうねえ。それっきりだ。それで撤去した。土台だけは残っているがね」
「そのお稲荷さんはそれだけのものですか」
「ああ、猟奇王との関係かね。何の値打ちもない祠だし、中にキツネの置物が入っていたが、割れていたねえ。誰かが悪戯したんだろう」
「キツネの置物は瀬戸物のようなものですか」
「そうだったと思う。それが何か」
「いえ」
 本当に聞いただけで、猟奇王とは何の関係もないようだ。そのキツネの置物が値打ちもので、狙われているのなら分かるが、そうではない。猟奇王の好きなキツネうどんと結びつけようとしたが、強引すぎる。
「本題に入りますが」
「え、今までは無駄話でしたか」
「ああ、はい。すみません」
「で、何ですかな」
「弥勒菩薩を用意しましょう」
「ほう」
「瀬戸物でも何でもいいです」
「それはよろしいが、怪人が盗みに来る品をわざわざ買ってまで用意する必要がありますか。ないものは盗めない」
「あるものなら盗めます」
「では、わざと盗ませるのですか。それじゃ探偵さん、花田さんとか言ったかね、君の失策になる。盗まれたとすればね」
「弥勒菩薩を探すため、猟奇王は家の中をめちゃくちゃにしますよ。言いがかりのようなものです。どこに隠したかと、大騒ぎに」
「屋敷を荒らされてはたまらん。後片付けが大変だ。それはいい。それよりも、阻止するのが君らの仕事じゃないのかね」
「猟奇王は別です。ただの押し込み強盗や泥棒ではありません」
「じゃ、どう違う」
「彼は」
「彼は?」
「怪人だからです」
 柿崎氏は沈黙した。独自の世界に巻き込まれたようだ。
 結局弥勒菩薩像であれば何でもいいということで、家人が通販で探したところ、いろいろな仏像のレプリカが売られていることが分かった。しかし値段が結構するので、広隆寺近くの土産物屋で小さな弥勒菩薩を手に入れた。
 家人とは柿崎家の家族ではなく、豪族時代からの家来筋の人々だ。
   ・
「動きはあったか」
 昼寝から起きてきた猟奇王が忍者に聞く。いつもの作戦本部机に上体を俯せて眠っていた。昼寝と言いながらも非常に長い。これは寝溜めのためだ。活動するのが夜なので。
 以前は昼夜逆転の生活をしていたが、それでは体に悪いと思い、夜に寝ることにした。しかし怪人の活動時間は深夜が多い。この矛盾を長い昼寝で解決している。
「下忍の報告では便所バエが屋敷に入ったようです」
「投げたか」
「え、何をだす」
「相手にされなかったということだな」
「予告状をでっか」
「しかし、動きは見せた。素人では便所バエというような特殊なものを呼ぶルートなどなかろう。先ずは警察署で相談。おそらく警察署の中で、わしの名を知る趣味性の高い者がおり、その情報から仲代警部へ振ったのかもしれん」
「見て来たように」
「これは毎度のパターなので、きっとそうだ。仲代警部も投げた。おそらく沢村探偵にだろう。ゴジラにキングコングを当てるのは常道。サンダにはガイラだ」
「知りまへんがな」
「沢村探偵は便所バエに投げた。そういうことじゃ」
「ほう、それは良いことでっか」
「良いも悪いもない。世間は相手にせんかったと言うことだ」
「弥勒菩薩を盗みに入るという予告状は、その程度でっか」
「何も起こってはおらん」
 つまり、犯罪性があるとすれば、ゴミの不法投棄だ。その一枚の紙、肉屋の特価のチラシだが、郵便受けや新聞受けに投げ込めば、これはそれほど問題にはならない。ただ、溜まるとゴミになるが、ゴミと見なされないのは、チラシの宅配は商行為のため、必要な情報かもしれないからだ。
 ただ、猟奇王が出した予告状はチラシの余白に書いた落書きのようなもので、予告状としての書式にもなっていない。だからチラシを所定の場所ではなく、屋敷の庭に投げ込んだと見なすしかない。そして、そのチラシは予告文によって汚されている。ここでもうチラシではなくなっている。もう商行為の手段ではない。だからゴミを捨ててはいけけない場所に捨てた程度の犯罪性だろう。
「そんな解説より、敵は便所バエでっか」
 忍者も便所バエと何度も戦っていた。そのため、嬉しそうに言う。勝てるからだ。
「油断するな。今度の便所バエ、知恵がある。うどん屋の屋台を仕込んだのも彼だ。油断できん」
「確率の低い罠でっせ、うどん屋の屋台は」
「いや、そうではない。知恵よりうどん屋の屋台を用意できたことじゃ。そんなもの簡単には準備できんぞ。仲間がいる」
「そ、それは」
 そこへ下忍が入ってきた。
「勝手にドアを開けるな、ノックせよ」忍者が怒る。
「あ、失礼をば、いや、非礼と言うのでしょうか」
「何でもええ。何や?」
「はい、その後もあの町内を探った結果」
「おお、どうだった」
「妙な建物を発見しました」
「柿崎屋敷のことやないやろなあ」
「そこまで、ぼけていません。あそこから弥勒菩薩を盗むわけでしょ。それとは別の建物が」
「どんな」
「アルミの家です」
「え」
「町内の人はアルミ館と呼んでいます」
「大将」忍者が猟奇王を見る。
 猟奇王の反応はない。
「分かりまっか」
「直接わしが見に行く」
「やっぱりアルミに心当たりが」
   ・
 闇の者、影の者、裏の者には独自の道がある。昼間はふつうの裏道であり、路地であり、生活道路であっても、深夜になると一変する。あらぬ者が通るためだ。
 それはあるのだが、ない。ないものとされている存在。それらの通り道は知る人ぞ知る。闇を知る者のみが知る間道でもある。そこを通り抜け、何処へ行くのかは分からない。ただ、表通りや昼間は歩きにくい人々だ。これを闇の住人と言い、その闇の帝王こそが猟奇王だと言われているが、闇の中ではそんな認識はなく、闇のままだ。
 戦後焼け跡闇市時代からの不法建築がまだ残っていそうなその町。表通りの大きな道はふつうだが、一歩中に踏み込むと、そこは魔窟に近い。時代とともに、それらは変わり行くのだが、この町内は忘れ去れたかのように歩みがのろい。といってエアコンがないわけでもなく、電柱には白いカバーの光ケーブルが走っている。上下水も完備し、ガスもプロパンではない。そこは現代なのだ。
 その路地の中で、先ほどから音がする。カランとか、カシャンとか。アルミ缶を踏んづけているのだ。
「久しぶりだな」
 アルミ缶を踏んでいた男は声をかけられる。邪魔立てすると容赦はせぬとばかり、声の方を向く。そこに黒いシルエット。
「お」声をかけられた男は紅ガラス。白いシャツに白いタイツ、その上からプロレスラーのようなパンツをはき、大きなチャンピオンベルトのようなものを巻いているが、パンツがややだぶついている。筋トレを怠ったため、痩せたのだ。背中にはマント。顔にはカラスのように黒いマスクで耳まで隠し、鼻先と口元だけが露出している。マントを首で結んでいるが、照る照る坊主のようにも見える。前髪が顔にかかり、片方の目はいつもそれで塞がれている。片目になるため、何も良いことはない。マスクから三角の尖った目が覗き、これではどう見ても正義の使者には見えない。
 しかし、往年の黄金バットも顔は骸骨だ。決して愛嬌のある顔ではない。
「見たな」猟奇王を見た第一声がそれだった。
「副業が必要だろ。正義のヒーローだけでは今日日食えん」
「その白い扮装、そんなことをしておるから薄汚れて鼠色ではないか」
「黙れ猟奇王。仕事中でなければ、貴様を退治するところだ」
「それより、生きながらえていたか」
「ああ、悪いがな。正義はしつこいのだ」
「この町内に詳しそうだな」
「縄張りなのでな。ここを取るまで大変だった。今では誰も立ち入れん。私の息のかかった人間以外は」
「臭そうな息だな」
「黙れ! 気にしていることを言うな」
 以前、猟奇王は空腹で行き倒れになっていた紅ガラスを助けたことがある。弁当屋の海苔弁と幕の内と牛丼を買い与えた。その恩義を紅ガラスは返していない。そのため、即の対決は避けている。
「何の用だ猟奇王」
「聞きたいことがある」
「何が聞きたい」
「柿崎屋敷」
「知らん」
「本当か」
「この辺りで一番古い家だ。それ以上知らん」
「もう一つよいか」
「何だ」
「うどん屋の屋台」
「う」
「おまえの配下だな」
「そうだ。便所バエに協力させた」
「わしを填めようとしたのは、おまえではないのか」
「知恵と人材を便所バエに与えただけ」
「そうか」
「それで、何だ。その柿崎屋敷とは」
「便所バエから聞いておらぬのか」
「知らん」
「以上だ」
「貴様も達者なようだな。相変わらず猟奇に走っておるのか。最近噂は聞かぬが、どうなんだ」
「わしが猟奇に走らねば困るだろ。それを止めるのがおまえの役目ではないのか」
「ああ、忘れていた。正義はまだやっておる。しかし、貴様が走らなければ事件など何もないんだ」
「世の中には多くの犯罪があるだろ」
「ジャンルが違う。私は怪人相手でないと燃えんのだ」
「そうか、そういう都合なら仕方あるまい」
 猟奇王は去っていく。紅ガラスはしばらくその後ろ姿を見ていた。できればいいタイミングで対峙したかった。
 紅ガラスはぽかんとした。もうアルミ缶をポンポン踏む気にはなれなかった。
   ・
 探偵便所バエは屋敷の一室を与えられ、そこで寝起きしていた。土産物品の弥勒菩薩は床の間にある。盗まれたくないのなら、そんなところに置く必要はない。
 柿崎氏は仏像には興味はなく、美術品の愛好家でもなく、ましてや秘蔵の弥勒菩薩というようなブツを隠し持つ道理もない。
 最初猟奇王の予告状を見たとき、弥勒菩薩を探したものだ。先代の誰かが秘蔵しているのではないかと。だが、倉や納戸や天井裏や床下まで探したが、そんなものは出てこない。最初からないのだから、盗まれようがない。ここが少し妙だ。
 要するに、その怪盗にすんなり盗ませ、それで終わった方が安全だと思った。これは便所バエではなく、仲代警部の知恵だろう。
 さわらぬ神に祟りなし、さわらぬ怪人に災いなし。
 盗まれてもいい土産物の仏像を見張りながら、便所バエはうたた寝を何度もしていた。これほど気楽なことはないのだが、仏像ではなく猟奇王の捕獲が目的だ。しかも現行犯で。屋敷に入り込んだ泥棒は当然ながら捕まえてもいい。
 本来ならお宝を盗まれ、それを守っていた探偵は大目玉を食らうのだが、その心配もない。ただ一つ心配がある。その心配の種は柿の種のように歯に当たる。虫歯が痛い。歯医者へ行かなければいけない。そこで痛い目に遭うのはいやだ。それが心配の種だった。
 さすが渋柿屋敷とよく言ったもので、座敷から見ると、庭全体が柿畑のように林立している。便所バエは暇なので、柿の実を数えていた。そのときである。白いものがある。柿の木に。
 ここ数日、ずっと庭の風景を見ていたので、それがすぐに目に入ったのだ。白いものは柿の枝に突き刺さっていた。モズがトカゲでも突き刺すかのように。
 便所バエはすぐに庭に飛び降り、柿の木に上り、その白いものを回収した。紙だった。
「また予告状が来ました」
 便所バエはすぐさま柿崎氏に報告する。
「三日後の零時か」
「はい、日時を予告してきました」
「いよいよだな。これで日が分かったので助かるよ。こんなことで、ずっと君の世話になるわけにはいかないからね」
「はい」
「さっさと盗み去ってもらいたいところだ」
「土産物品だと、ばれませんか」
「予告状には弥勒菩薩としか書かれておらんではないか。これも弥勒菩薩だ。弥勒菩薩なら何でもいいんじゃないのか」
「でも怪人ですから、値打ちのある弥勒菩薩でないと」
「そこまで付き合うことはなかろう。土産物とはいえ、結構値が張ったらしいぞ」
「はい」
「それより、こんな茶番劇、早く終わりにしたい」
「三日後です。すぐです」
   ・
 おやつの時間、アジトで猟奇王はたこ焼きを食べていた。
「紅ガラスと会った」
「まだ生息してましたか、あのカラス」
「ああ」
「どうしました?」
「哀れを誘う」
「元正義の使者ですからなあ」
「今もそう思うておるようじゃぞ」
「便所バエの黒幕はやっぱり紅ガラスでっか」
「あの様子ではそれだけの気力はなかろう。便所バエに頼まれて人を貸しただけかもしれん」
「そしたら今回は便所バエ対猟奇王でんな。これはもう勝負は見えてますがな」
「元気なのは便所バエだけか」
「つまらんでっせ、便所バエとの戦いは」
「これで敵なしではないか」
「簡単すぎて、話になりまへんがな」
「まあよい。三日後、乗り込む」
「こんな楽な話、退屈しまんなあ」
「油断するな、あの便所バエ、知恵がないだけ、逆に怖い」
   ・
 その三日後が早速来た。いろいろと準備があるだろう。まさか散歩がてらに外に出て、そのまま盗みに入るわけではあるまい。しかし、そんな感じで乗り込んだ方が、案外すんなり行くのかもしれない。策士策に溺れるではないが、無策では溺れようがない。
 その町内は暗い。暗闇でないのは月が出ているためだ。町中で月明かりを感じることは殆どない。周囲に明るいものがいろいろとあるためだが、この町は照明が暗い。街灯が少なく、自販機の明かりもない。当然家の窓からの明かりも少ない。無人のゴーストタウンではない証拠に所々に窓明かりある。たまにポンと明かりが灯るのは、誰かが便所にでも入ったのだろう。二十ワットほどの淡い明かりだ。
 路地と思っている場所が意外と広い。幅の広い広大な路地、四車線ほどもあるような路地だ。だからこれは路地ではないのかもしれない。そこに二つの影。当然月明かりによる影だ。
「こんな影、久しぶりでんな大将」
「そうじゃのう忍者。子供時代の影踏み以来かもしれん」
「そのまま乗り込みまっか」
「時間的には丁度だ」
「予告の零時前に着きます。抵抗がなければ、そのまま頂いて帰れまっせ」
「邸内の様子は調べてあるだろうな」
「心配なく。弥勒菩薩は土塀の上からでも見えまっせ。広い座敷の床の間にあります。便所バエが見張っているだけでしたわ」
「しかし」
「何か忘れ物でも」
「いや、偶然はあり得ん」
「そうでっせ。偶然なんか、ほんまに偶然にしか起きまへん」
「それが起きておる」
「今でっか」
「適当に弥勒菩薩と書いたのだが」
「予告状にでんな」
「そうじゃ。本当にあったようだ」
「ありましたで仏像が。よう分かりまへんが、あれは弥勒菩薩でっしゃろ」
「ロダン作、考える人のようなやつだぞ」
「そうでんなあ。手を顔の方に向けてました」
「よう知っておるのう」
「教科書に出てましたから」
「ならば秘蔵の弥勒菩薩に違いない。瓢箪から駒だ」
 当然、そんな偶然などあり得ない。予告状を見て用意した土産物屋で売られているレプリカであることは先にも触れた。
「敵の警備は」
「下忍の物見では便所バエだけとか」
「気をつけよ」
「分かってますがな」
「敵が罠を張っておるなら、かかってやろうじゃないか」
「そうでんなあ」
 その広い路地を抜けると本来の狭い路地に入り、左右には貧しそうな家が並んでいる。裏長屋がまだ残っているが本当に住んでいる人は少ないようだ。猟奇王よりも、この町の方が謎めいている。
 路地に入った二人、退路を確認するため振り返る。先ほどの大きな都大路のような路地だ。
 月明かりに何か黒いものが遠くにいるのが見える。忍者が身構え、腰を落としながら、後戻りする。
「ワオーン」
「犬か」
 毛並みの悪そうな首輪のない駄犬が、広小路を横切っていく。怪しい人影を見て吠えたようだが、遠吠えに近い。そして狭い路地に走り込んだ。文字通り犬走りの通路を犬が走ったようなものだ。犬走りとは便所の汲み取り口があるような狭い通路だ。生活道路以下の隙間と言ってもいい。しかし野良犬がうろうろしている町は今では珍しい。
「わてらも、そろそろ走りまっか」
「よし、一気に抜く」
 二人が柿崎屋敷へ向かった瞬間、ぽつりぽつりと家の窓に明かりがついた。零時前、そろそろ寝るので、明かりを落とすのなら話は分かるのだが。
   ・
 零時前の柿崎屋敷。邸内には柿崎氏と夫人、そして探偵便所バエしかいない。夫人は病気で二階で伏せっている。それを見舞った柿崎氏は一階の和風応接間でテレビを見ている。零時前のニュースは今日の出来事を伝えていた。衆議院が解散するとかで、そのあと特番で、テレビ討論会などを映し出している。まさに現代の話だ。しかし今、柿崎氏が遭遇しているこの空間と時間の間は少しおかしい。怪人が予告状を出し、弥勒菩薩を盗み出すという椿事が持ち上がっている。この違和感は何だろう。
 そのとき、硝子の割れる音。来たな、と柿崎氏は台風でも来たかのように呟いた。
   ・
 猟奇王と忍者は土塀を乗り越え、一気に庭を走り抜け、母屋のガラス戸を叩き割ったところだった。そんなことをしなくても鍵はかかっていなかったのだが。
「誰だ」便所バエは分かっていそうなものだが、つい聞いてしまった。
「猟奇王只今参上」
「大将、口上はええけど、硝子の破片、気をつけなはれや」
「靴なので大事ない」
 猟奇王、そのままツタツタと板の間のように幅のある縁側を進み、さっと障子を開ける。
 布団の中にいる便所バエ、すぐさま床の間の弥勒菩薩の前へ。
「弥勒菩薩、猟奇王が予告通り頂いた」
「そそ、そうはさせるものか」
「刃向かうか。こんなところで取り合いの揉み合いは避けたい。こちらへ渡せ」
「現行犯だ猟奇王」
「それがどうした」
「認めたな」
「何を細かいことを。奪いに来たのだ。予告したじゃないか」
 横で見ていた忍者が、さっと弥勒菩薩を掴み取り、庭へ走った。
 便所バエ、逃げる忍者ではなく、猟奇王に組み付いた。
「触るな、便所バエ」
「捕獲せり」
 便所バエ、相撲のサバ折りのように胴を両手で締め上げる。猟奇王、上体を反らせ、便所バエの頭に肱打ちを食らわす。
「イタ」
 そのまま横へ上手投げ。どんと背中から落ちる便所バエ。
 縁側へ向かう猟奇王の足が布団を踏んだのを見計らい、便所バエ、さっと布団を引く。猟奇王、バランスを崩すが立て直す。
「便所バエよ。以前もこんなことがあったのう。結果は分かっておるはず」
「大将、遊んどらんと、逃走や」庭から忍者の声。
 余裕を持って庭へ降りる猟奇王の後頭部に、がつんと音が鳴った。油断だ。
「う」
 便所バエが十手でどついたのだ。
「だから、こういう揉み合いはやめろと言っておる。見苦しい」
「黙れ猟奇王。今夜が娑婆での最後の夜。その月、よく見ておけ」
「いい捨て台詞を思いついたなあ。少しは教養を積んだか」
 便所バエ、呼び子を口にくわえ、頬を殿様蛙のように膨らませ、思いっきり吹く。
 ピーと夜空に鳴り響く。屋敷の外に忍んでいた探偵団が庭の猟奇王と忍者を取り囲む。数人いる。
「大将、油断や」
 猟奇王は便所バエを甘く見ていたようだ。
「手下はどうした」と、忍者に聞く。
「下忍でっか、次の用意で帰しました」
「敵が多すぎる」
「これぐらいやったら突破できますがな」
「それはいいが、あまりドタバタするでない。さっと盗み、さっとシンプルに去るのがいい」
「ここは手荒な真似せんと、突破できまへんがな」
 取り囲んでいる中には、あの偽装うどん屋の顔も見える。結構年輩者もいる。青年探偵団よりも年齢層が高い。身なりはバラバラだ。どう見ても探偵団というより町内の消防団。
 一人、バットを持った大男が突っ込んできた。これが口火となり、揉み合いになる。
 忍者は地面に玉を叩きつけた。
「あ」
 玉は破裂したが白煙が少し上がっただけ。
「火薬が湿ってましたわ」と言った忍者の背中に石礫がくる。
 バットや棍棒を持った団員が余裕ありげに迫る。
「大将、わては右、大将は左へ走り抜けましょ。止まってては負けます」
「分かった」
 忍者は懐から筒を取り出し、猟奇王にバトンのように渡した。
「捕まえるんだ」便所バエが指令するが、団員たちは警戒している。余裕がある振りではなく、何をするか分からないような怪人と忍者がやはり怖いのだ。先ほどの玉も怖いし、筒も怖い。
 バーン
 二発目の玉は湿っていなかったのか、白い煙が煙幕のように立ちこめた。
「今や、大将」
 二人は一気に身を消した。
   ・
「何の騒ぎだったのです。あの物音は」
「猫が喧嘩でもしていたのでしょ」
 二階の病床にいる夫人と柿崎氏。
「面倒は起こさないでくださいよ、あなた」
「もう終わったようだ」
「何事も穏便に」
「そのつもりだよ」
   ・
 白煙に巻かれた便所バエ達は二人にも巻かれたので、すぐさま屋敷の外に出た。まだそれほど遠くへは行っていないはずだと、手分けし、四方を探したが、走る去る猟奇王と忍者の後ろ姿は確認できなかった。路地が入り組んでいるため、見晴らしが悪いのだ。
「しまった」
 便所バエは地面に座り込んだ。意外とこういうときに正座している。行儀がいいのかもしれない。
 捕獲はできなかったが、ありもしない弥勒菩薩を用意し、それを盗ませることには成功した。これは成功でも何でもなく、無能者なら誰にでもできることだ。本来はすんなりと持ち去ってもらうことになっていた。しかし、我慢できず阻止しようとした。これは探偵の本能だろう。怪人を見れば、捕まえたくなる。
 持ち去られても被害はない。土産物屋の安いものなので。それよりも沢村探偵や仲代警部が心配していたのは副作用なのだ。下手に猟奇王を追いかけると、とんでもないことになる。これも便所バエの本意ではない。そのため、外に出て一応は追いかけてみたのだが、見失ったのなら仕方がない。実際にはその方がいいのだが、どうも納得できない。
 それは猟奇王の副作用という爆弾が、果たしてあるのかないのか定かではないためだ。
 幸いその副作用もなく、町内はいつもよりも窓明かりが多い程度だ。
 さて、騒ぎが静まった屋敷では柿崎氏が一人応接間でグラスを傾けていた。真っ赤な葡萄酒だ。このままでは寝付けないのだろう。
 もう屋敷内の明かりは殆ど落ち、この応接間だけになっている。テレビをつけると昔の刑事ドラマの再放送をやっていた。
 フフフと犯人が不気味に笑っている。見るとも、聞くともなく、ぼんやりとテレビを眺めている。そのフフフが結構長い。そんなに長く笑い続けるものだろうかと、少し気になった。よく見ると、もう犯人の映像ではなく、警視庁の映像に切り替わっている。それなのに、フフフ……。
「誰だ」
「フフフ」
「き、君は」
 いつ応接間に入って来たのか黒いシルエット。
「お初にお目にかかる」
「だ、誰だ」
「御存じかと」
「猟奇王」
「少し挨拶だけで、お邪魔する」
「弥勒菩薩は盗んだのだろ。もう終わったはずだが」
「逃げ遅れて、まだ屋敷内にいたのだ」
 忍者は土塀を飛び越えたが、猟奇王は一緒ではなかった。
「私のことを知っておるのかね」
「ここに来て初めて知った」
「狙いは私か。柿崎の秘密か」
「知らぬ、そんなことは」
「じゃ、なぜ、ここにまだいる」
「だから、土塀を越えられなかったまで。もう騒ぎも静まったようなので、邪魔者もいない故、挨拶代わりに」
「本当にそれだけか。何か要求があるのか、あれば聞く」
「いやいや、弥勒菩薩は頂いたことだし、目的は果たせた」
「そ、そうか」
「この辺りの路地、かなりおかしい。いや、この町内そのものが妙だ。小さな家ばかりなのに、ここだけが大きい。人が住んでいるのだが、空き家も多い。まともな町、まともな場所だとは言えまい」
「き、君は」
「この屋敷には塀がある。しかし、塀の外も柿崎の敷地内なのではないのか」
「な、何を」
「広大な敷地だ。あんな広い路地など存在するわけがない」
「何が言いたい」
 柿崎氏は、そっと黒い固まりを手にし、ボタンを押す。すると、音がするどころか、静かになった。テレビを消したのだ。
「何もかも知っていて、あんな予告状を出したのか」
「知らぬ。しかし思い出したことがある。噂だ。遠い昔の」
「それは」
「柿崎の柿色マント、柿マントとも呼ばれていた」
「うっ」
「同業だな」
「…………」
「柿崎盗賊団」
「それは昔のこと」
 偶然出した予告状の相手が同業者だったわけだ。悪党は悪党の道を知る……ではないが、どこかで交差する確率が高いようだ。
「柿崎さん」
「はい」
「あなたはわしを知っておった」
「噂は聞いておりました」
「それで、どうするつもりだった」
「さあ、そこだ猟奇王」
「どこだ」
「迷った。今もです」
「迷いは人の常。よくあることじゃ」
「柿崎は、もうとっくに盗賊団はやめている。少なくても私が養子に入ったときはな。しかし、妻、つまり柿崎の娘は未練があるらしい」
「ここへ来るとき、町内の窓明かりが多かったように思えるが、そのためか」
「一応配下に伝えておいた。猟奇王が来ると」
「優柔不断か」
「そういうことだ。何をすればいいのか、私にも分からない。妻は病で寝ているので、ここで騒ぎは起こしたくない。しかし、飛び込んできた猟奇王をどう料理するかで迷った。結局、何もできなかった」
「であるか」
「あなたが羨ましい」
「そんな感想は聞きとうない。わしも適当なもの」
「一つ、断っておきたい」
「何だ」
「弥勒菩薩など、ここにはない」
「当然だな」
「柿崎一族、そのグループ、もう社会人だ。みんな正業についておる。盗賊団などやってられる時代ではない。だから、羨ましかった」
「その話は、もういい」
「正面からはまずい」
「ん?」
「屋敷を出るときは」
「ほう」
「騒ぎを起こしたくない」
「その配下とやらが黙ってはおらんだろ」
「これを使え」
 柿崎氏は応接間の端に立つ。その板壁をぽんと押すと闇が開いた。隠し戸だ。
「隠し戸とは懐かしい。忍者がいれば喜ぶものを」
「屋敷の外に出られる。そこから逃げればいい」
「柿崎さん」
「はい」
「あなたもやりたかったのだな」
「いいや、そういうことで走るのは卒業した」
「そうか」
「達者でな猟奇王」
「また逢おう」
 猟奇王は隠し戸の闇の中へと消えていった。
   ・
 猟奇王を柿崎屋敷に残したまま忍者は一人だけ土塀を飛び越えたわけではない。当然上から引き上げることなど忍びの者にとって容易なこと。あえて猟奇王が屋敷内にとどまったのだ。便所バエだけでは歯ごたえがなかったのかもしれない。そして、この町内、この屋敷、ただならぬ何かを感じ、だから予告状をこの屋敷に投げ込んだとも言える。その正体が何となく分かってきたところだ。
 弥勒菩薩……それは何でもよかった。忍者はそれを小脇に抱え、屋敷脇の細い路地を駆け抜けていた。これで予告通り弥勒菩薩強奪は成功したが、それが偽物の仏像であることぐらい、持った瞬間分かった。つまり、お宝でも秘仏でもない代物だった。それだけにしてやったりの感慨もない。
 しかし、少なくとも冬眠状態の猟奇王が活動したのだから、無駄ではない。
「猟奇王が出たぞー」と、遠くでだみ声が聞こえる。どことなく弾んでいる。続いて「猟奇王が走ったぞー」と上ずった声。さらに「猟奇王が弥勒菩薩を盗んで逃亡中だぞー。この周辺にいるぞー」と、聞こえる。
 弥勒菩薩は忍者が持っている。他に本物があるのだろうか。
 路地の向こうに明かりが見える。懐中電灯だろうか。光が揺れている。
   ・
 アルミ館で寝ていた紅ガラスも、この騒ぎに気付いた。空き家で空き缶と暮らす身では、何があったのかと聞く相手も、直系の子分もいない。アルミ缶回収の親方にしかすぎないのだ。
 しかし外の声の中に、猟奇王という名が出たので驚く。寝ている場合ではない。布団から出てパッチを脱ぎ、タイツ姿に履き替え、落ちていた赤のぼろの毛布をマント代わりに背中に回した。紐はなく、毛布の先を括っただけのもの。晴れの場でこんな見苦しい格好は見せたくなかったが、幸い夜は暗いので分かりにくいだろう。
 そして表に飛び出すと、町内の人が走っている。火事場見学にでも行くように。
 紅ガラスはその追っ手の流れに乗ったとき、アルミ缶仲間の親父から声をかけられた。
「親方、猟奇王らしいでっせ」
「そうか」
「知ってはりましたか」
「いや」
 この当時正義の味方怪傑紅ガラスの情報網は殆どなかった。もう現役とは言えないためだろう。ただ、ゴミ置き場の情報だけには精通していたが、逆にそれが悲しい。
「親方」と、もう一人、仲間が声をかけてくる。屋台のうどん屋を演じていた男だ。
「御屋形様の屋敷が猟奇王に襲われました」
 この御屋形とは、アルミ館の親方のことではない。柿崎屋敷のことだ。そして御屋形様とは柿崎当主。野武士の時代から数えて何代目かの柿崎赤右衛門。養子だ。
 この町内は柿崎家の地所で、広大な邸内と言える。柿崎の元郎党などが住んでいるが、ふつうの借家や長屋、文化住宅、アパートも多くあり、一般の人も暮らしているが、泥棒も混ざっている。盗んだ品などを柿崎が買い取るのだ。泥棒市が立つ場所として、知る人ぞ知る魔窟。そういう連中と一緒に一般住人も屋敷を出た猟奇王を追いかけ回しているのだ。
   
 一方便所バエはこのとき何をしていたのか。いつものしつこい便所バエにしては淡泊で、あっさりと諦めたのだ。外での捕り物を控えたのだろう。つまり、猟奇王の副作用を言い聞かされているため、それを素直に守った。捕獲するなら屋敷内か庭まで、そのワンチャンスを逃したのだから仕方がない。
 それに由緒ある仏像が盗まれたわけではない。便所バエの指示で持ち込んだものなのだ。くどいがこの屋敷には弥勒菩薩など最初からない。
 便所バエは配下になってくれた団員達に礼を言い。解散しようとしたとき、ワーワーと声が聞こえた。路地のあちらこちらを駆け抜ける町の人。猟奇王がどうの、弥勒菩薩がどうのと聞こえてくる。
「こ、これは」便所バエの目が輝いた。それは心配していたことが起こるためだ。
「何ですか団長。もう解散してもいいでしょ」残っていた団員が聞く。
「副作用が始まったのかもしれない」
「え、意味が分かりません」
「しかし、猟奇王が来ていたことをどうして町の人達は……」
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 その頃、猟奇王は町から出られないまま逃げ回っていた。路地抜けは得意中の得意なのだが、この町の路地はおかしい。町から出る道が見あたらないのだ。それで、あの路地この路地、大きな路地と、ところかまわず走っていた。それに、あの路地の先が出口ではないかと思える箇所に行こうにも、追っ手がそちらから迫ってくるため、行けない。それで何度も回り込むが、なかなか抜けられない。そのうち石礫や木片が飛んでくる。遠くの方から洗濯竿を持った男が助走しながら投げてきた。槍投げだ。しかし洗濯物もぶら下がっていた。
 既に家の窓という窓は真っ赤になるほど明かりが灯り、門灯のある家は道を明るく照らしている。しかし、空き家も多い。猟奇王は暗い方、暗い方へと追い込まれていった。もはや出口を探すどころではなかったのだ。
 このややこしい町、柿崎の町だが、ふつうの町とも接している。しかし、どうやらそれらノーマルな市民の家も、この騒ぎに気付いたようだ。夜中に大声や、だみ声が聞こえ、屋根の上を走っているのか、がたがた音がする。板塀が崩れたり、塀の上の鉢植えが落ちたりと、地震でも起きたのではないかと心配した。しかし、それら市民の中には、この状態を期待していた節もある。
「とめ子ー! 運動靴出せー」
「夜中にジョギングですか」
「あの物音、あの足音が分からんのか」
「え」
「噂で聞いたことがある。猟奇王や、猟奇王が逃げてるんや。猟奇王が走ってるんや」
「それがあんさん、どないしました」
「どないもこないもないわい。追いかけるしかないやろ」
「何ですのん」
「知らんわい。はよ、運動靴出せー、鉢巻きもあったらな」
「あんさん、そんなもん、ありまへんがな」
「地下足袋でもええ」
「そんなもの、誰が用意してますのや」
「わしのビジネスシューズ、走りにくいんや」
「知りまへんがな。靴やったら、他にもありますよ」
「見せてみい」
 女将さんはスニーカーを出した。
「こんな模様が入ってチャラチャラしたもん、運動靴とちゃうわい。真っ白な運動靴がええんじゃ」
「何でもかんでも急に言うんやから」
 周囲の町から駆けつけた野次馬も加わり、町内は人でごった返した。
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 そして猟奇王が逃げ込んだのは、とある家だった。
 表では追っ手の足音、怒声が聞こえてくる。
「そっちの家を調べろ。君らは向こうの家だ。この路地に追い込んだのは確かだ」
「屋根も調べろ。上に登ったかもしれんぞ」と、猟奇王は追い詰められた。
 駕籠抜けと言うのがある。車もそうだが左右にドアがある。乗ったと思わせて、向こう側のドアから逃げるのだ。しかし今回、裏口から入ったが、表口からも声が聞こえる。何ともならない。
 勝手口のドアがきしむ。慌てて猟奇王は台所から別の部屋へ入ったとき、そこに布団を見た。誰かが寝ているのだ。
「あ」
「おお」
 目が合った。枕元にアルミ缶が並んでいる。缶ビールを飲んで寝ていたのは紅ガラスだった。
 ふて寝していたのだ。一度、外に出たのだが、途中から参加するのが面白くない。自分が主導権を握りたかったのだが、そうはいかない。それで、騒ぎが収まるまで、見ないことにしていたのだ。
「追われているのか。隣の部屋は子供部屋だったらしい、洋室だ。そこに隠れろ。鍵もかかる」
 紅ガラスは寝たまま言う。
 ガーンと音がし、勝手口と玄関戸が同時に破られた。
「誰だ! 人の家に土足で上がり込むのは」
 追っ手達は異様な仮面を被った紅ガラスを猟奇王と見間違い、襲いかかった。
「こら、何をする。私は正義の側だ」
 問答無用だった。すぐに縄が掛けられ、表へ引っ張り出された。
「猟奇王、海苔弁他の弁当類の借りは返したぞ」と、紅ガラスは呟いた。
 追っ手が引いたため、猟奇王は玄関口から外に出た。新築中だった紅ガラス自慢のアルミ館は無惨にも崩壊し、鱗の山ができていた。
「さて、引き上げるか」
 猟奇王はそのまま屋根に登り、町の様子を見る。
 下を見ると、通りに紅ガラスがいる。縄は解かれたようだ。アルミ缶仲間が駆けつけ、誤解が解けたのだ。
「これで心おきなく脱出できる」
 二階の大屋根に登った猟奇王はポケットから葉巻のような筒を取り出す。それを吸うのではなく、火をつけたまま上にかざした。シュシュと火花が走り、どーんと打ち上げられた。のろしだ。町に高い建物は風呂屋の煙突を残す程度。
 夜空に小さな花火が咲いた。
「何だ、あれは」
 猟奇王を見失い、何処を走っていいのか分からなくなった追っ手は、花火が打ち上がった方角へ吸い寄せられるように集まってきた。
 大屋根で立ちはだかる猟奇王。再び目標を発見した追っ手は屋根によじ登りだし、また、下からは石を投げつけた。梯子を掛けようとする者もいる。
「また逢おう諸君」
 これはコンサートのエンディングに近い。しかし完全に取り囲まれ、近くの屋根にも人が登ってきている。
 暗いので落ちる者もいたが、下は人で埋まっていたので、受け止められたようだ。
「あれが猟奇王か」
 工事用のライトや何本もの懐中電灯の明かりが猟奇王の顔を浮かび上がらせる。まさにスポットライト。
 捕獲前の一瞬の間。一気に取り押さえる前の僅かな間が訪れた。
「この程度で済んでよかった」
「そうですなあ、仲代警部」
 横にいるのは沢村探偵。
 恐れていた副作用とは、この騒ぎなのだ。
「そろそろ来ますぞ」と、沢村探偵。
「うむ」
 その来るものが来た。上空から。
「遅いぞ忍者」
 猟奇王の真上から縄梯子。その上に気球。
「未だにこんな古典を」と見上げる紅ガラス。
 気球はゆるりと猟奇王を乗せ、上がっていく。
 仲代警部はヘリの出動を要請しない。当然だ。より大きな副作用を及ぼすためだ。
「仲代さん、手こずりました。騒ぎが大きくなってしまい」便所バエが泣きながら言う。
「この程度で済めばいい」
「はい」
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 気球で上空に昇った猟奇王は下界を見ている。
「やりましたなあ、大将」
「出来レースではないか」
「まあ、そうでっけど。無事で」
「弥勒菩薩は」
「ここにあります」忍者が見せる。
「おもちゃか」
「はい」
「置き土産じゃ、下へ落とせ」
「ええんでっか。売ったら千円ぐらいには」
「これだけ人を集めた。何もなしでは悪い。下界へ落とせ」
「分かりました」
 これがいけなかった。
 気球を追っていた群衆は上から何かが落ちてくるのを見た。当然弥勒菩薩であることを知っている柿崎の配下が「秘蔵の弥勒菩薩像だー」と叫んだ。
 まん悪く、別件で飛んでいた報道ヘリがその騒ぎを上空から生中継した。
「しまった」
 仲代警部は眉間の縦皺を血が出るほど寄せた。
「副作用ですなあ」沢村探偵が呟く。
「叔父さん」便所バエが嬉しそうに別の空を指差す。報道ヘリが増えていた。
 猟奇王が走ると、町はパニックになり、翌日会社や学校は休みになるという都市伝説がある。そのとき、もう猟奇王など関係なくなっている。
 今回もそれが来たようだ。
 恐るべし副作用だと言えるだろう。
「大将、町はパニックでっせ」
「結局キツネうどんを食べそこなった」
「こわいうどんでしたなあ」
「ああ、怖い怖い」
 無事窮地を脱した猟奇王。これを目出度し目出度しと言っていいものかどうか。判断に困るところだろう。
 猟奇王の落とした弥勒菩薩はラグビーボールの如く奪い合いになり、ニュースで見た群衆が初詣のように群がった。その騒ぎは明け方まで続き、始発電車を遅らせた。三日三晩続くと言われたこの副作用は、今回軽い方だった。
 ちなみに当局からのコメントは一切ない。
 月夜に浮かぶ気球。果たして何処へ飛んでいくのだろう。それは月のみが知る秘密なのかもしれない。
 
   猟奇王 猟奇の副作用 一巻の終わり

   

   

   


2015年1月14日

小説 川崎サイト