小説 川崎サイト

 

御愁傷様

川崎ゆきお


「寒いですなあ、もう春なのに」
「いや、春の手前が一番寒いのです。特にきつい寒さを用意しているようにね。これが去ると暖かくなりますよ」
「例年そうですねえ。忘れていました」
「一年立てば忘れる。まあ、昨日のことも忘れているほどなので、一年前なんて、よほど印象深いエピソードでもなければ、無理でしょ」
「自転車に乗っていて怪我をしましてねえ。あれが冬場でした。三年前ですが、その怪我を覚えているので、その前後のこともよく覚えていますよ」
「そういうものです」
「自転車に乗り、煙草を吸おうとしました。ポケットから煙草の箱を出してから、煙草を一本取り出せばいいのですが、寒いのでねえ。片手をポケットに突っ込み、そのまま指でごそごそさせながら煙草を取り出そうと」
「その話、まだ長いですか」
「すぐにこけます。もう少し」
「手短に」
「はい、それでどうしても一本を抜き取れない。狭いところから出すわけですし、何本も残っていないので、傾いているんでしょ。穴の下へ来ない」
「穴」
「銀紙を破いたところですよ。蓋のようなものですが、全部開けてしまうと、落ちますからね。まあ三分の一ほどかな。シールのようなのが貼ってあるので、そこで仕切られているようなものです。その話は、面倒なのでしません」
「当然です」
「それで、どうしても取り出せないので、ついに諦めてポケットから箱を出しましたよ。それを左手で持ち、右手の指で、ふつうに取り出そうとしたとき」
「何が起こったのですか」
「だから、自転車で転んだ話をやっているじゃないですか。煙草の箱から鳩は出ない」
「それで転んだのですかな」
「片手でポケットで取り出しているときは、あなた、もう片一方の手は自転車のハンドルを握っています。これは正確にはグリップですがね。これで自転車は安定しています。しかし両手を離したことになります」
「え、走りながらそんなことをしていたのですか」
「片手で取り出せれば、走りながらできます。しかし、取り出せないので、両手を使うことに相成ります」
「両手離しで乗るのは塾度が必要でしょ。それにあなたの自転車、重そうなママチャリでしょ」
「よく聞いてくれました。ママチャリの前のカゴに重い鞄を入れていたのです。鞄の中はですねえ」
「そこまで言う必要はありません」
「覚えているんですよ。三年前の冬に、鞄の中に入れていた重いノートパソコンを。これは安かったのですが、重いんです。どこがモバイルかと思うほどね。10インチモニターでサイズは小さいのですが、分厚くて重いんです。これは今は使っていませんがね。この転倒事故があってから、この重さが災いの元だったことが分かったし、そのせいにして、新しいのを買う背中押しにもなりました」
「話が見えませんが、それに季節の話をしているのですよ」
「はい、もうしばらくです。あと少しです」
「早くね」
「はい。それで、両手を離しながらといっても実際には肘でハンドルを押さえながら、ゆっくりと走っていました。さて、それで問題の重いフロント。重すぎるのです。前がね。それで、ぐらっと来たので、すぐに肘で押さえ込みましたがハンドルは鎮まりません。重い荷を前に乗せていると、前輪が急に九十度ほど回りますからねえ。一応それに備え、肘で押さえ込んだはずなのです。押さえるだけは舵は取れない」
「はい、続けて」
「肘で押さえている側の手に煙草箱を持ち、もう一方、これは右手ですが、指を穴に突っ込んで、煙草を取り出そうとしたとき、そのごそごそが、意外な動きになったのか、ハンドルが急に回ったわけです。悪いことに、いつも足を付く左側じゃなく反対側に傾き、何ともならないまま、右側へ転倒しかけたので、倒れる寸前に右膝をついたのです。コンクリートに膝の皿をぶつけた感じですよ。そんなことなら全身で受け身をしながら転んだ方がよかったのかどうかは今となっては分からない。膝を打つ高さとは違いますからねえ。腹や腰、胸などから落ちたかもしれません。当然両手はペッタンとつきましたよ。浮いた砂が取れないほどね。当然煙草の箱も投げ出して、そして膝付き後、すぐに自転車を立て、乗りましたが、これが十分後、来ました。その後ひと月ほどは歩くのが痛かったなあ」
「終わりましたか」
「聞いていました?」
「一応」
「三年前の冬の話なんですが、覚えているんです。その近くの鉢植えもね。倒れるとき、パコーンと音がしたんです。鉢植えをひっかけたんでしょうなあ。これは起こさず、そのまま走り去りました。だから、三年前の鉢植えの形や色まで覚えています。今でもその前をよく通りますが、その鉢植え。これは壺のような形ですが、まだ無事です」
「はい、ご苦労さん」
「えーと、それで何の話でしたか」
「だから、この寒さが去ると、暖かくなるという話ですよ。そして例年そうだが、一年前のことは忘れているが、あなたのようにエピソードがあれば、三年前のことでも覚えているという話です」
「それだけの話でしたか」
「違う。寒いからこそ暖かさの良さがあり、それを望む。そういう話をやろうとしていたのに、あなたの自転車転倒の話が長すぎて、今日はここでお開きです」
「あ、それは御愁傷様でしたわ」
 
   了
   



2015年3月17日

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