小説 川崎サイト

 

セレン式

川崎ゆきお


 時代というのは人によって違う。年代によって違うと言った方がいい。そのため馴染みのある時代の範囲が年代によりずれ込む。ある年代まではまだ引っかかっているが、それを過ぎると、もう重ならない世界となる。僅かでも重なっていると、話が早い。
 だから、生年月日は大事で、その人が生まれたあたりで、まだ生きていた偉人とかがいると、同時代を生きていたことになる。赤ん坊では知りようがないが、同じ時間内で過ごしていたわけなので。これはワープする必要はない。物理的に移動すれば、合えたかもしれないのだ。赤ん坊なら、歩いてはいけないだろうが。これはぎりぎり重なっていると言える。
 その人が生きていた時代より、さらに古い時代まで範囲を広げると、もう今生の人は誰も体験したことのない世界になる。明治の初めや江戸時代などだ。この時代や、さらに古い時代まで範囲を広げた場合も、今、生きる上ではそれほど役立たないかもしれない。これは歴史をよく知っていると言うことではなく、日常生活での話であり、暮らしぶりの中での話に限られるが。それでも人に歴史があるように、物にも歴史はある。
 江戸時代と同じような感覚で、今の時代を生きようとすれば無理が出る。時代感覚の差がありすぎるためだろう。これは大正時代でもまだ遠い。着ているものが違うし、話し方も違うだろう。それが物心ついた頃なら、記憶として残っているはずだ。町内の大人達はこんな言葉遣いをしていたとか。これは親の言葉遣いを真似るのと同じで、かなり重なっている。
「ライカですか」
「はい、昔のカメラです。私のお爺さんの親あたりが使っていた、いや、もっと古いかもしれない。そうなると先祖が使っていたようカメラになりますが、もうだめですねえ。今じゃ」
「フィルム時代のカメラですね」
「家一軒建ったなんて時代の高いカメラですよ。医者と弁護士しか買えないような」
「最近弁護士も低年収のようですよ」
「そうだね、そういう言い方もレトロになったか」
「その先祖が使っていたライカが代々伝わっているんですよ。今でも使えますよ。写せますよ。しかし、使えないですなあ」
「フィルム代がかかりますからねえ」
「八ミリカメラもそうだ。その前に出ていた十六ミリフィルムを半分に切ったような細さのカメラもあったねえ。キャメラと言ってたかなあ。そう言うのも使えなくなったねえ。テープ式のビデオカメラも使わないねえ。これは最近だ。バッテリーの予備を沢山買ったんだよ。高かったんだけど、無駄な買い物になったよ。それほど撮さないうちにカードに記録するデジタルビデオカメラになった。今じゃデジカメに普通に付いてくるからねえ」
「時代ですねえ」
「今の人なら、最初からそうだ。デジタルだよ。生まれたときからケータイはあるしね。スマホやパソコンもある。だから、アナログ的なのを使っていた古い人間とは重ならない部分がどうしても出てくるんだよ。あれは昔で言えば、あれのことだって言っても、通じにくい。下手に知っていると鬱陶しがられる。言うほどの物知り博士じゃないのにね」
「でも、今の若い人でも、生まれた頃はテープ式のビデオカメラで撮ったのが残っているでしょ。だから、知らないわけじゃないのですよ。さらにその前の時代なら、八ミリで残したかもしれませんしね。何となく繋がっているんですよ」
「そうだねえ」
「で、どうです」
「ライカですか」
「安くしておきます」
「先祖代々伝わるライカでしょ」
「赤エルマー付きですよ」
「考えておきます」
「専用露出計も付けておきます。セレン光電池はまだ生きてますから、針は動きますよ。自家発電です」
「ほう」
「よろしく」
 
   了


   



2015年3月19日

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