小説 川崎サイト

 

岩倉のちくわ

川崎ゆきお


 あの人はどうしたのだろう……と、木村はたまに思うことがある。こういう思いになるときは、何もしていないときが多い。一寸時間ができたとか、今やっていることを中断し、ぼんやりとしているときだろうか。だから、そんなことを思い出すのは、さほど実用性はなく、また必要ではないのだろう。
 ムシノシラセではないが、ある特定の人のことを急に思い出すことがある。その人は途切れてしまった人で、木村の交友関係では、それで普通だ。殆ど繋がりがなくなり、そこで消息を絶つ。探してまで連絡するような用事もなく、特に合いたいとも思わない。
 木村は岩倉という知り合いのことを思い出した。先ほどまで明治維新前後の小説を読んでいたためだろうか。岩倉具視が出てくる。だから、虫の知らせではなく、ただの連想だ。岩倉と言えば、あの人、と言うように、思い出しただけ。しかし岩倉具視は公家だった。岩倉に住んでいたから、岩倉なのか、岩倉家が住んでいた場所だから岩倉なのかは分からないが。その友人も岩倉と関係しているとすれば、公家さんの血筋だったのかもしれない。似たようなことが太平記などを読んでいると、播磨の赤松氏が出てくる。室町時代には大大名になっている。それで、赤松という小学校の頃の同級生を思い出したのだが、かなり貧乏な家の子だった。しかし、もしかして、その赤松一族の末裔かもしれない。ただ、赤松家も最初から大大名だったわけではない。
 さて、その旧友の岩倉だが、とあるチームで一緒になった。数十人いた中の一人で、いつもちくわを食べていた。それで覚えているのだ。ポケットの中にちくわが入っていた。それをたまに取りだし、食べていた。ただのおやつにしては、ちくわは変だ。ポッキーとか、ビスコなら分かる。しかしちくわはない。生ちくわをおやつにし、それを何本も持ち歩いていた。そのちくわは薄い紙で包装されたフルサイズのちくわだ。三本入りとかではない。
 そのチームでは不思議と、そのちくわの岩倉だけを覚えている。無理に思い出せば、あと二人ほどいるが、もう霞の彼方で、顔も出てこない。その岩倉と仲がよかったわけではない。そのためチームが解散してからは合ったことがない。
 そんな感じで、途切れてしまった人などいくらでもいるだろうが、岩倉のその後が気にならなくもない。強く気にしないが、消息が分かれば、それだけで良い。一寸チェックする程度だ。
 そこで、木村は試しに、岩倉のフルネームで検索した。下の名も分かっていたのだ。名前まで今も覚えているのだから、遠い関係とはいえ印象に残ったのだろう。それはちくわのせいだ。
 検索の結果、岩倉が出た。岩倉具視ではなく、知人の岩倉某氏だ。飛び先はフェースブックだった。
 そして、扉絵にちくわがどんと横に置かれていた。この画像スペースは横に長い。そのため、ちくわの寸法に合っていた。それよりも、未だにちくわが好きなのには驚く。
 そして、記事を見ていくと、ちくわのことなど書かれていない。ちくわを目的としたブログの類いではないためだろう。
 しかしあの頃の、あの懐かしいちくわがそこにあった。その頃は学生時代で、岩倉もちくわをポケットに入れて食べるような真似はできたが、社会人になってからは、無理だろう。仕事中ちくわは食べにくいだろうし。第一変に思われる。
 だから、フェースブックでのちくわの写真は、岩倉がまだ若かった時代の青春のシンボルなのかもしれない。それで、もうちくわはおやつのように食べてはいないが、オマージュとして載せているのかもしれない。しかし、青春のシンボルが生ちくわでは、少し生々しすぎる。
 
   了



2015年4月5日

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