小説 川崎サイト

 

二つ来る

川崎ゆきお


 中学でも高校でも、ややこしいことを言い出す人がいる。小学校の頃はもっとひどかったが、中学高校になると、少し穏やかになる。そのややこしいこととは、妙な説を唱える人で、これは何処で覚えたのか、教えられたのかは分からない。自分で発見したのだろうか。
 そのややこしい説を持論として持っている田中は、社会人になってからは流石に人前で、そのことを話すことは減った。減っただけで、絶えたわけではない。誰かに話さないと辛抱できない、または耐えられないというわけではないが、親切心で教えてやりたい。
 この田中の大層な説は、高校時代の同級生が看破し、ただ単に気のせいだということで、一応の決着を見せた。しかし、田中は治まらない。まだその説にこだわっている。
 その説とは言うほどのことではなく、何でもないことだ。それこそ小学生でも思い付きそうなことで、単純な説。
 それはただの陰陽説かもしれない。裏があれば表があるということだが、そういう裏表だけではなく、二つのことが発生するという話だ。
 良いことが起こると悪いことが起こる。あることだ。良い状態が悪因の原因になるのだが、それとはまた違い、二つが問題なのだ。
 誰かと疎遠になると、新しい友人が現れる。一方に何かが起これば、必ず他方でも起こっている。これは分からないこともある。
 田中はその説を発展させないまま、小学生の頃のまま、未整理な状態で、その秘術を使っているのだ。これはきっと、他で誰かが言っていることかもしれない。占い師や、宗教家や、あるいは難しい哲学者が既にしっかりとした形にしているかもしれない。ただ、田中はそちら方面に趣味はなく、単に気付くだけの話だ。
 あるものが発生すると、あるものが消える。あるものが欠けるけると、あるものが発生する。単純明快だ。減れば増え、増えれば減る。
 これは表の顔と裏の顔があるというのではない。どちらも表の顔だが、二種類あるとかだ。この場合、片方も表なのだ。だから、陰陽説とは違う。
 そのため会社でも、誰かが成功というか、手柄を立てたとき、同時に失敗したなと思う。そのためか、自分が良い仕事をして褒められても嬉しくはない。そのとき、怒られることの芽が出ているからだ。逆に叱られたとき、それは褒められる芽が発生している。だから、叱られても哀しくはない。
 田中の同級生が、その説をさんざん馬鹿にし、大論争の末、田中は負けたのだが、未だにそれは正しいと信じている。これは信仰ではなく、実際にそうなのだから、事実なのだ。だから、説ではないし、そういう考え方なのではない。
 ただ、これは言いすぎになるので、今は黙っている。
 一つのことが起こると、もう一つのことが必ず何処かで起こっている。この小学生レベルの単純さは、意外と長持ちするようだ。
 
   了


2015年4月8日

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