小説 川崎サイト

 

路地の本屋

川崎ゆきお


 様変わりした街並みを歩いていると、自分ももう過去と共に取り残されたのではないかと高中は感じた。背景もまた自分の一部、拡大された何か、拠り所のような何かだったのかもしれない。
 よく晴れた日で、足の向くまま昔暮らしていた町を訪ねたのだが、来なかった方がよかったのではないかと後悔した。あの店をもう一度見たい。それは豆腐屋だが、子供の頃何度か使いで買いにやらされた。鍋を持って。あの頃は何だったのかと思う。薄暗い奥にある水槽が不気味だった。そういうものをもう一度確認したかったのだが、そんな店どころか、建物そのものがないし、通りはあるのだが、違うものがずらりと建ち並んでいる。これでは回顧の楽しみも何もない。道だけだ。しかし、その道もレンガ敷きに舗装され、やたらと綺麗になっている。当時は砂利道で犬の糞を踏みそうな場所だった。豆腐屋の前のドブはコンクリートではなく、ただの溝で、そのため周辺に雑草が生え、虫などがいた。秋などバッタが飛び出した。十円玉を落とし、探したことがある。
 そういう背景は流石に高中が大人になるに従い変わっていったが、今ほどの様変わりではない。そのため、別の町へ来たようだ。ここにはもう何もないと感傷的になる。拗ねているのかもしれない。ここだけが昔のままだと逆に怖い話だ。
 ところが、一軒だけ昔から見慣れた本屋がある。家庭画報と書かれた文字看板が未だにある。間口は狭く、奥行きも大したことはない。それが残っているのだ。
 大きくなると、この小さな本屋では流石に用を足さないので、寄らなくなったが、真っ白な髭を伸ばし、丸い眼鏡をかけた主人のことは覚えている。
 高中は、これは救いだと思い、すぐに本屋へ飛び込んだ。すると、奥に真っ白な髭と丸い眼鏡の人が座っていた。
 年齢的には子供か孫だろう。当事この本屋の主人は自分の親よりも年を取っていたが、お爺さんではない。高中が今その年齢になっているので、やはり息子か孫だろう。そっくりだ。
 入り口に平積みされていた漫画雑誌が気になっていた。少年キングだ。その横にボーイズライフがある。
 本棚に赤い背表紙の本がある。見覚えがあるのだ。金園社の金魚の飼い方だ。何度買おうとしても高いので買えなかった本だ。
 これはやってしまったかなと高中は悟った。奥に座っているのは息子や孫ではなく、あの当時の見知った主人なのだ。入ったまではいいが、出られるだろうか。店内は狭く細長く、そして薄暗い。外が明るすぎるのだろう。出入り口は光源のように眩しく、見えている店並みも真っ白く飛んでいる。
 これ以上深入りしてはいけないと思い、高中は後ずさるように、じりじりと後ろへ歩いた。それは、丸眼鏡と目が合ったためだ。ここで目を逸らすととんでもないことになると思い、身を返して飛び出せなかったのだ。
 その動作が効いたのか、通りに戻れた。ただ、後ろ向けに歩いたため、危うく自転車と接触するところだった。そして、向かい側の豆腐屋のあった建物の壁にぶつかっていた。
 危ない危ない。
 しかし、本屋は正面にまだあり、そのずっと奥から丸い眼鏡がまだこちらを見ている。
 間口は狭い。さっと蟹のように横へ逃げようとしたとき、スクーターと接触しかかり、避けるため、膝を突いた。すぐに乗っていた主婦が「大丈夫ですか」と起こしてくれた。
 そして、本屋を見ると、ない。
 しかし僅かな間口だけは路地のように残っていた。本屋の敷地分だけの細長い地面を残して。
 
   了

 




2015年4月29日

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